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ジャパネットたかた 日本とは?

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 日本国 は、この項目へ転送されています。その他の用法については、日本 (曖昧さ回避)、日本国 (曖昧さ回避)をご覧ください。
日本国(にっぽんこく、にほんこく)、通称日本は、ユーラシア大陸東端の日本列島を主な領土とする東アジアの国家。
日本は、東アジアの東方(ヨーロッパを中心に見ると極東と呼ばれることもある)又は太平洋の西部にある島国である。領土は、本州、北海道、九州、四国などからなる日本列島を中心に、南に延びる伊豆諸島、小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(沖縄など)、及び北東に延びる千島列島の一部を含み、全体として弧状列島を形成する。周囲を太平洋、日本海、東シナ海、フィリピン海、オホーツク海などの海洋に囲まれる。ロシア連邦、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国、中華人民共和国、中華民国、フィリピン共和国と海を挟んで接している。
周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・漁業ともに盛んな海洋国家である。内海を含む領海、排他的経済水域などの水域面積は約447万km2であり、これは国土面積の11.7倍にあたる[3]。
工業国として、国内総生産 (GDP)で世界第2位(USドル時価換算)に位置する経済大国である。1964年(昭和39年)に経済協力開発機構 (OECD) に加盟し、主要国首脳会議には1975年(昭和50年)の第1回(当時は先進国首脳会議)から参加するなど、世界経済へ強い影響力を持つ。
国家としての日本、または日本の文化・民族は、長い年月を経て段階的に形成されてきており、建国時期を示す明確な記録はない。建国記念の日(旧紀元節)は、記紀において神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年、1月1日 (旧暦))となっている。
日本列島には約10万年前ないし約3万年前から、しだいに人が住み始めた。約1万2千年前の前後、氷河期が終わると同時にアジア大陸と分離し、東アジア文化圏の影響下にありつつも独自の文化・社会・政治体制を築いていった。国家としての「日本」が成立したのは7世紀後半から8世紀初頭にかけての時期である。
日本」は東アジアの中でも独特な国際的地位を保持し続け、7世紀には中華王朝に対し「同格」であることを認めさせ、13世紀の元寇や16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀の欧米列強の進出などの事態にも対応して独立を維持した。
明治維新によって日本は近代国家として著しい発展を見せ、アジアで初めて憲法と議会を持つ、近代的な立憲国家となった[4]。大正デモクラシーを経て、政党政治と普通選挙を実現したが、次第に軍部が台頭。急速な拡大を志向するも太平洋戦争で敗北し、イギリスやアメリカなどの連合国の占領下に置かれることとなった(1952年(昭和27年)に国家の主権を回復)。戦後は戦禍からの復興と共に高度経済成長を遂げ、世界有数の経済大国となった。
古来から日本で暮らしてきた人々は日本民族(大和民族, 天孫民族)と呼ばれ、現在も日本に住む人間のほとんどを占める。それ以外に外国人が約130万人、帰化人が数十万以上在住している[5]。全土で日本語が話されており、識字率は極めて高い。(民族、言語の項も参照の事)
政治は、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法を最高法規として行われる。統治機構は、立法権を国会、司法権を裁判所、行政権を内閣に分配する三権分立制を採る。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を憲法の三大原理とし、その根本にある個人の尊重(個人の尊厳)を基調とする。また、憲法に元首の定めはないものの、世襲である天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(1条)として、元首またはそれに準じた地位に置く。
天皇は、初代から第125代の今上天皇(現在の天皇明仁)に至るまで、すべて男系で世襲されてきた(万世一系)。直接統治を行う事は稀で、豪族や貴族、幕府や政府といった世俗の権力が代わって統治する事が多かった。天皇は主として、その政治権力の担い手の正当性を根拠づけ、権威を表象する役割を果たした。明治以降は立憲君主制の形をとり、第二次大戦後から現在は日本国憲法の定めるところにより「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第一条)と位置づけられている。
日本は中華人民共和国や大韓民国などの近隣諸国や、同盟国であるアメリカ合衆国、国際連合との関係を最重視しつつ、世界中の国と友好関係を築いている。
イギリスのBBCワールドサービスが2005年より毎年公表している、10前後の特定の国および地域が世界に与えている影響の印象を尋ねる世界規模の世論調査では、日本が質問対象国となった2006?2008年の各年いずれも、「好影響を与えていると思う」との回答率がもっとも高い国の一つとなった。日本は、国際的に非常に高い評価を得ている[6]。2006年公表の調査では、33カ国、約39500人に調査し、日本は、ヨーロッパに次ぎ、国としてはもっとも「好影響を与えている」との回答率が高い結果となった。2007年の調査では、27カ国、28000人に調査し、日本はカナダ、ヨーロッパ連合、フランスと並び、もっとも高い評価を受けている国の一つにあげられた。2008年の調査は、34カ国、17457人に調査し、日本はドイツと並んでもっとも「好影響を与えている」との回答率が高い結果となった。
国号には「日本国」が通常用いられる。日が昇る「ひのもと」の地であることに由来していると考えられている。
根本法令である憲法の表題には、「日本国憲法」「大日本帝国憲法」のように「日本」国号が明示されてはいるが、国号を日本国と直接かつ明確に規定した法令はない。
日本」という国号が成立した時期は、7世紀後半から8世紀当初までの間と考えられている。具体的には、天武天皇治世において成立したとする説[7]と、701年(大宝元年)の大宝律令成立前後に成立したとする説[8]が有力視されている。『日本書紀』大化元年七月条に高句麗・百済からの使者への詔に「明神御宇日本天皇」とあるが、これは後に定められた大宝律令公式令を元にして『日本書紀』編者が、潤色を加えたものと今日では考えられている[9]。
7世紀後半は唐が対外志向を強め、これに脅威をおぼえた唐周辺諸国が、国力増強のために国制整備を進めた時期だった。倭国もまた660年の百済復興戦争で唐・新羅に敗北し、国際的な孤立へと追い込まれ、以後、倭国は律令制の導入などにより精力的な国制整備に取り組んだ。この取り組みを大きく推進したのが天武天皇だった。天皇中心の国制整備を進める天武治世期において天皇号が生まれたと現在考えられているが、「日本」国号の成立を天皇号の成立と同時期と見るのが、前者説である(例えば吉田孝は飛鳥浄御原令(689年)にて「日本」国号と天皇号が定められたと推測している[10])。その後、天武が推し進めた国制整備は701年の大宝律令成立をもって一つの到達点に至ったが、大宝律令の成立を「日本」国号の成立と密接なものとする見方に立つのが、後者説である(例えば神野志隆光は具体的に、大宝令公式令詔書式において「日本」国号が定められたとしている[11])。
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」から遣使のあったことが記されている。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』にもこの時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(大周)へ伝えられたことが確認できる。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても、「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としている。国号変更の事情について、旧唐書が「小国だった日本が倭国を併合した」とするのに対し、新唐書は「倭が日本を併合し、国号を奪った」としており、混乱が見られる[12]。これらの記述により、702年に「日本」国号が唐によって承認されたと現在では考えられている。
旧唐書・新唐書が語るように、「日本」国号は日本を東方に見る国、すなわち中国大陸の国からの視点により生まれた[13]。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序において、日本国が中国に対して「日の本」すなわち東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度にわたって行なわれた日本書紀講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても、中国の視点により名付けられたとする説が採られている。神野志隆光は、日本の称が中国の世界観の中から生まれた可能性を指摘した上で、ゆえに日本の国号が唐に受け容れられたのではないかと考察している。また、『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出処」の天子と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もあるが、仏典『大智度論』に日出処は東方の別表現である旨の記述があり、現在、「日出ずる処」は単に文飾に過ぎず、「日本」国号の成立とは無関係であると考えられている[14]。
日本」の国号が成立する以前、中国古代王朝からは「倭国」または「倭」と称されていたが、「やまと」の政治勢力が中心となって倭を統一したため、古代日本では漢字の流入とともに倭を借字として「ヤマト」と読むようになった。やがて古代日本が認識していた国号である「やまと」に当てた漢字を倭から「日本」に変更し、日本と記して「ヤマト」と読んだ。[15]
同時に、「日本」国号は7世紀後半の国際関係から生じたものであるため、当時の国際的な読みである音読により、「ニッポン」(呉音)または「ジッポン」(漢音)と読まれただろうと推測されている[16]。「ニホン」の読みがいつ始まったかは定かでない。平安時代の仮名表記では促音・濁音の区別がなかったため、「ニッポン」音も「にほん」と表記された。「ニホン」の読みはここから起こったと考えられている。しかしながら日本語においてハ行音はP音→F音→H音と変化したと考えられ[17]、H音が定着するのは江戸時代以降であり、仮名で「にほん」と表記されたものを平安時代には「ニッポン」あるいは「ニポン」と読み、やがて「ニフォン」に変化し、江戸時代後期の頃に「ニホン」と読むようになったと考えられる。また平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。
室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』『日本語小文典』等には「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合では「ニッポン」が使われ、日常の場面では「ニホン」が使われていた[18]。 Xipangu、Japan、Japon 等、ヨーロッパ語圏での日本を表す語は「ジッポン」に由来すると考えられているが、「ジッポン」音は現在伝わっていない。このことから小池清治は、中世日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用するのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていたのであり、日常的には「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのではないかと推測している[19]。
その後、明治期に入っても「ニッポン」「ニホン」の統一がなされない状況の中、1934年(昭和9年)に文部省臨時国語調査会が、国号呼称を「にっぽん」に統一し、外国語表記もJapanを廃してNipponを使用すること、とする案を示した。しかし、完全な統一は果たされなかった。現在、通商や交流の点で海外と関連のある紙幣、切手などには「NIPPON」と描かれている。「NIHON」と表記する例はあまり多くない[20]。
自らを呼んだものには、まず「葦原中国」(『古事記』、『日本書紀』神代)、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」(『古事記』)、「豊葦原千五百秋瑞穂国」(『日本書紀』神代)等があり、これらに共通する「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われている。「大倭豊秋津島」(『古事記』)、「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)の「秋津島(洲)」は(とんぼの島)の意であるが、孝安天皇の都の名(室秋津島宮)に由来するとされている。同じく「師木島」(『古事記』)、「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)等の「しきしま」も、欽明天皇の都(磯城島金刺宮)に由来するとされる。「大八洲」(『養老令』)、「大八洲国」(『日本書紀』神代)は、多くの島からなる島国の美称と解されている。このほか、「磯輪上秀真国」「細矛千足国」「玉垣内国」(『神皇正統記』)、「浦安国」「藤根国」(『詞林采葉抄』)、「日出処」、「大和国」、「和州」等多くの別称があった。
中国からの呼び名には「倭」「倭国」「倭奴国」「倭人国」のほか、扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」 [21]、「蓬莱」をはじめとして、「東海姫氏国」、「東海女国」、「女子国」「君子国」、「若木国」、「日域」、「日東」、「日下」、「烏卯国」、「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。
「皇朝」はもともとは中原王朝の天子の王朝をさす漢語であるが、日本では天皇王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」または「すめらみかど」等と訓読した。「神国」、「皇国」、「神州」、「天朝」、「天子国」などは雅語(美称)としての「皇朝」の言い替えであって、国名・国号というようなものではない。「本朝」は「我が国」というような意味であってこれも国名ではない。江戸時代の儒学者などは日本をさして「中華」、「中原」、「中朝」、「中域」、「中国」などと書くことがあったがこれも国名ではない。「大日本」と大とつけるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字をつけて天子の王朝であることを示す中国の習慣からきている(「有漢、皇魏、聖晋、大宋」等。「大元・大明・大清」は例外でこの3例のみは二文字で正式国名)。しかし、「おおやまと」と読む場合はそれとは関係ない古称の一つである。「帝国」は、もとは「神国、皇国、神州」と同義の語であったが、近代以後は"empire"の訳語として使われている。明治時代から第二次世界大戦後までの国号は、日本日本國、日本帝國、大日本國、大日本帝國なども表記上は用いられたが、大日本帝国憲法成立後の正式国号は「大日本帝國」である。戦後は「日本」「日本国」である。[22]。
公式の英語表記は、Japan(ジャパン)。略記としてはJPNが用いられる。JAP(ジャップ)は、アメリカ英語では侮蔑的な意味があるので[23]、使用には注意が必要である(但しこの他の言語ではこの限りではない)。また、最近の外国語表記ではNippon(ニッポン)が用いられることが多い。具体的にはUPU等によるローマ字表記(1965年(昭和40年)以降)、郵便切手や日本銀行券などでNippon表記を用いている。なおNipponの先頭三文字で略したNIP(ニップ)は、JAPよりも強い侮蔑・差別の意味合いがあるので、使用するべきではない。この場合の略称はNPNとなる。
世界の多くの言語において日本を意味する固有名詞は、ジャパン(英: Japan)、チャパーン(愛: tSeapain)、ヤーパン(独: Japan)、ジャポン(仏: Japon)、ハポン(西: Japon)、ジャッポーネ(伊: Giappone)、ヤポニヤ(波: Japonia)、ヤポーニヤ(露: Япония)、イープン(泰: ???????)など、ある時期にある地域の中国語で「日本国」を発音したもの(ジーパングォ)を写し取ったジパング (Xipangu) あるいはジャパング (Japangu) を語源とするとするのが定説である。中国や韓国などの漢字文化の影響の強い地域においては、リーベン(中: Rib?n; 日本)、イルボン(朝: ??; 日本)、ニャッバーン(越: Nh?t B?n; 日本)[24]等、そのまま「日本」を自国の発音で読むというやり方をしている。
アイヌと琉球王国については、日本の領域に含まれたのが近代以降であり、それ以前の歴史の詳細を各々の項目にて解説している。
日本の歴史は通常、日本列島における歴史と同一視されているが、国号節で見たように、厳密には「日本」の成立は西暦700年前後の出来事であり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」を明確に区別してとらえるべきとする考えも出されている[25]。本節では国家としての日本がたどった歴史とその領域の変遷を中心に見ていくこととする。日本の歴史の詳細については日本の歴史および各時代の項目を参照されたい。
日本の歴史の時代区分は、考古学上のものと歴史学上のものがある。考古学上の時代区分は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代、弥生時代、古墳時代、歴史時代、とするのが一般的である。一方、歴史学上の時代区分としては、古代(飛鳥時代およびそれ以前・奈良時代・平安時代)、中世(鎌倉時代・室町時代・戦国時代)、近世(安土桃山時代・江戸時代)、近代(明治・大正・昭和およびそれ以降)の四分法が通説である。(→日本の歴史#時代区分節)
日本列島の人類の歴史は、約10万年前以前ないし約3万年前に始まったとされる。当時の日本列島はアジア大陸と陸続きであり、西方の華北・北方のシベリアとの文化交流も見られた。約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると、日本列島は大陸から分離した。この後も列島と大陸との間に活発な通交・交流が行なわれ、巨視的には日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあったが、東アジアの最東方に所在する島国、という地理的条件によって、日本は他の東アジア地域とは異質な要素を持つ文化・社会を発達させていった。
紀元前8世紀頃以降、大陸から稲作を中心とする文化様式が伝わると、各地に「ムラ」「クニ」と呼ばれる政治組織が徐々に形成され、1世紀・2世紀前後には各クニの連合による倭国と呼ばれる大規模な政治組織が出現した。この連合的政治組織は3世紀・4世紀頃に統一王権(ヤマト王権)へと発展すると、7世紀後半には中国の法体系・社会制度を急速に摂取して8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見るに至った。「日本」国号と天皇号は、この古代国家の建設・成立と軌を一にして登場したと考えられている。当時の日本は隋との通交以来、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せており、中国を中心とする冊封体制からの独立を志向していた。他の東アジア諸国とは異質な外交姿勢であり、この外交姿勢は、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれていった。
成立当時の「日本」の支配地域は、日本列島全域に及ぶものではなく、九州南部以南および東北中部以北はまだ「日本」の領域外だった。九州南部は8世紀末に「日本」へ組み込まれたが(→隼人)、東北地方の抵抗は強く全域が「日本」の領域となったのは鎌倉時代に入ってからである(→蝦夷)。特に8・9世紀は、蝦夷征服活動が活発化するとともに、新羅遠征が計画されるなど、帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入るとこうした動きは沈静化した。
11世紀後半から12世紀にかけて、旧来の天皇を中心とする古代律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ中世国家へと移行した(→荘園公領制・職の体系)。12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」「日本国」の表記が見られ始め、これは社会に「日本」「日本人」の意識が生まれたことの現われと考えられている。特に13世紀後半の元寇(蒙古襲来)は、「日本」「日本人」意識が社会各層に広く浸透する契機となり、あわせて「日本は神国」観念を定着させた。網野善彦は、このように「日本」「日本人」意識は、外国のみならず神仏なども含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている[26]。室町時代には「日本」の領域が北海道南部まで及んだ。
14世紀 - 15世紀の時期には、社会の中世的分権化が一層進展していったが、15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んでいった。この地域国家形成の動きは、中世社会の再統合へとつながり、16世紀末には日本の統一政権が樹立されるに至り、時代は近世へと移行した。「日本」の領域はこの時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太を含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は「日本」の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、いわば境界というべき地域だったが、18世紀にシャクシャインの乱やロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、アイヌおよびロシアへの他者意識が「日本」「日本人」観となって庶民層にまで定着し、「日本」の領域も蝦夷が島(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、「日本」の西の境界は、中世を通じて鬼界島・硫黄島までと意識されていた。17世紀初めに薩摩島津氏が琉球王国を侵攻し、支配下におさめたが、その後も琉球王国は日本・中国への両属を続けた。
19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとして「日本」「日本人」意識がますます強まり、現代の「日本」「日本人」意識とほぼ一致するまでに至った。アジア各国が欧米列強の植民地とされていく中で「日本」が独立の歴史を長く保ったことは、国民国家意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設の基礎となったと考えられている。
明治維新を迎えた日本は、近代的な国民国家の建設を急速に進めていった。同時に近隣国と国境確定を行い、1875年(明治8年)に樺太を放棄する代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(→樺太・千島交換条約)、南西諸島方面は琉球処分を通じて実効的な支配に成功し、ここに一旦、近代的国家としての日本国領域が確定した。
自由民権運動を経て日本は1885年(明治18年)に、内閣制度を確立して、1889年(明治22年)には大日本帝国憲法を制定し、1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置した。こうして日本は、アジアで初めて憲法と議会を持つ、近代的な立憲国家となった[27]。
19世紀後半 - 20世紀初頭当時の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られた日本は、日清戦争や日露戦争を経て勢力圏の確保を進めた。両戦争を通じて日本は、台湾・澎湖諸島および南樺太を領土におさめ、関東州租借権を獲得した。その後日本は、1910年(明治43年)に韓国併合を、1919年(大正8年)に国際連盟からの委任を受けて南洋群島の領有権・統治権を獲得した。また、大正時代には大正デモクラシーが起こり、政党政治と普通選挙が実現した。
1930年代には中国東北部への進出を強め、満州国を建国・傀儡化して一定の支配権を得るにいたり、国内では軍部が台頭した。こうした対外志向は、特にアメリカ合衆国をはじめとする欧米諸国との権益と真っ向から衝突し、最終的には1945年(昭和20年)の太平洋戦争、日中戦争(大東亜戦争、十五年戦争)での敗北によって破局に至った。
敗北した日本は、連合国軍の占領体制下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領有権・統治権の総てを事実上失った。日本が他国の支配を受けるのは史上初の経験だった。連合国占領下において国制改革が進められ、憲法改正を行い、日本国憲法を制定した。1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約により占領が解除されると、その後の日本は1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げた(→高度経済成長#日本の高度経済成長)。また1968年(昭和43年)には小笠原諸島、1972年(昭和47年)には沖縄県の施政権がそれぞれアメリカ合衆国から返還された(→沖縄返還)。
1970年代後半以降の日本は、先進国の一員として数々の国際的役割を果たし、多くの発展途上国では成長モデルとして目標にされてきた。21世紀に至り、日本は社会の超高齢化とそれに伴う人口減少、経済の世界規模化への対応などの課題に直面している。
日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)に即位したとの記述があり、戦前はこれが日本建国の画期と考えられていた。明治5年11月15日(1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元が西暦紀元前660年に始まると定められ、紀元前660年を元年とする紀年法「皇紀」が1873年(明治6年)1月1日から使用された[28]。
公的には前述の神武天皇即位紀元をもとにして、1966年(昭和41年)、建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)によって2月11日が「建国記念の日」に定められた。(→建国記念の日)
しかし、歴史学の立場からすると、神武天皇即位は歴史的事実とはされておらず、神話の反映と見られている。戦後になり皇国主義的な歴史観が排除されると、皇紀が使用されることはほとんどなくなった[29]。
日本の建国時期として、このほか「日本」国号が定められた時期(飛鳥浄御原令または大宝律令の成立時期)、大政奉還がなされ近代国家建設が始まった明治維新の時期、ポツダム宣言を受諾して新たな日本建設が始まった時期、サンフランシスコ講和条約を結び主権を回復した時期、などが挙げられることがあるが、国家としての日本は長い歴史的経緯を経て形成されており、明確な建国の画期を見出すことは困難であり、建国をめぐる議論は主観的なものとなりがちである。
日本は、アジア(ユーラシア大陸)の東方、太平洋の西部にある島国であり、4つの弧状列島(日本列島、千島列島、南西諸島、伊豆・小笠原諸島)から成り立っている。台湾の東方にある与那国島から、樺太の南方にある北海道までを領土としている。 北にオホーツク海、北西に日本海、南西に東シナ海、南にフィリピン海、東に太平洋と周囲をすべて海に囲まれ、日本海を挟んで大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ロシア連邦、東シナ海を挟んで中華人民共和国、中華民国(台湾)、フィリピン海を挟んでフィリピン共和国と国境を接する。また、南方にパラオ共和国、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア連邦があり、太平洋を挟んでアメリカ大陸がある。
全体的に弓形状になっており、全6,852島からなる国土面積は約37.8万km2(北方四島以外の千島列島、南樺太を除く)。領土の約70%が山であり、森林率は約67%である。周囲はすべて海であり、地上の国境線は実効支配領域においては無い。 本州と四国の間の海は特に瀬戸内海と呼ばれる。沖合を暖流の黒潮、対馬海流、寒流の親潮、リマン海流が流れる。
現在、ロシアとの間に北方領土(南千島列島を主とする。北千島列島・南樺太も含む場合がある)、大韓民国との間に竹島(独島)の領有問題がある。その他、近年になって尖閣諸島近海に地下資源が発見されて以来、中国が尖閣諸島の領有権を主張しており、台湾も中国に対抗して尖閣諸島の領有権を主張している。日本の尖閣諸島発見以来、日本が占有しているという話があるが文書的な記録はない。中国人は隋朝(唐まえの朝代)から尖閣諸島領有権を持つという古代中国の記録があるが、国際的な公認も未だ確定していない。北方領土はロシア、竹島は韓国に不法に占拠されたままとなっている。お互いの主張が平行線を辿っていることもあり、2008年現在も解決のめどは立っていない。
日本列島の地形区分は地質構造を基準にして南西日本と東北日本に大別される。その境界線は本州中部を南北に縦断する糸魚川静岡構造線である。 付近では、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋プレート、北米プレートがせめぎ合い、環太平洋造山帯・火山帯・地震帯と呼ばれる帯の一環をなしている。そのため地震が頻発し、世界全体で放出される地震エネルギーのうち1割から2割が日本周辺に集中すると言われているほど地震が多い。そのため、震度1クラスや2クラスくらいの地震は日本のどこかで毎日のように起きている。また、火山活動が活発な事から、火山性土壌が多くこれが日本列島の自然を豊かにした面もある。また温泉が多い事も火山の恵みと言える。
ロシア占領下で帰属が微妙な千島列島占守島小泊崎(北緯50度・東経155度)を最東端とする意見もある。
上記の択捉島を含む北方領土はロシアが実効支配しておるので、実質的な最北端は北海道稚内市弁天島(宗谷岬;北緯45度31分13秒・東経141度56分27秒)である。
ロシア占領下で帰属が微妙な千島列島阿頼度島最北埼(北緯50度55分30秒・東経155度32分)を最北端とする意見もある。
大半の地域は温帯に属する。南方の諸島は亜熱帯、北方は亜寒帯的気候を示す。海洋性気候だが、モンスーンの影響を受け、四季等寒暖の差は大きい。
冬季はシベリア高気圧が優勢となり北西の季節風が吹くが、その通り道である日本海では暖流の対馬海流から大量の水蒸気が蒸発するため、大量の雪を降らせる。そのため日本海側を中心に国土の約52%が豪雪地域であり、世界でも有数の豪雪地帯となる。逆に太平洋側では空気が乾燥した晴天の日が多い。
夏季は、太平洋高気圧の影響が強く、高温多湿の日が続く。また、台風も多い。ただし、北部を中心にオホーツク海高気圧の影響が強くなると低温となり、しばしば農業に悪影響を与える。
また日本は、比較的降水量の多い地域でもある。主な要因は日本海側での冬季の降雪、6・7月(沖縄・奄美は5・6月)に前線が停滞して起こる梅雨、夏季から秋季にかけて南方海上から接近・上陸する台風など。年間降水量は、約1,700mmとされる。
日本は都道府県(1都1道2府43県)という広域行政区画から構成される。ただし、地域区分(地方区分)には揺れが見られる。また、一部の市などは行政上は別途政令指定都市、中核市、特例市、特別区に定められているほか、各都道府県を、さらに細かく分けた市町村という行政単位や、町村をいくつかまとめた郡がある。北海道には独立出先機関として14の支庁が置かれている(全国市町村一覧参照)。
以下に、日本の地域(地方)と47都道府県を示す。地域(地方)は一般的なものを示した。太字は都道府県名で、左の数字は下の図の数字と対応している。
16.富山県 - 17.石川県 - 18.福井県(新潟を加えて北陸地方 (広義)とする場合や福井県の全域、若しくは嶺南地方を近畿地方に含める場合がある。)
19.山梨県 - 20.長野県 - 15.新潟県(新潟の代わりに岐阜を加えて中央高地という言い方もする。)
21.岐阜県 - 22.静岡県 - 23.愛知県(普通、「東海3県」というと、静岡県ではなく三重県を含める事が多い。)
31.鳥取県 - 32.島根県 - 33.岡山県 - 34.広島県 - 35.山口県(鳥取、島根、山口の一部で山陰と言い、岡山、広島、山口のほぼ全域で山陽という。)
36.徳島県 - 37.香川県 - 38.愛媛県 - 39.高知県(四国山地より北を北四国、南を南四国とする。)(中国地方とくっつけて中国・四国地方とする場合もある。そうした場合、山陽と北四国をくっつけて、瀬戸内と言う。)
日本の首都は事実上東京であり、世界最大の都市圏かつ世界最大の経済規模である。[3]ただし、歴史的な事情により首都を東京と定めた明文法は現在に至るまで制定されていないため、旧都である京都が現在も都(首都)であると主張する説も一部に存在する。 東京都特別区の人口は約860万人で、東京都を中心とする首都圏人口は約3300万人。東京には、皇居のほか、国会議事堂、内閣、最高裁判所、各省庁、各国大使館、大企業の本社、日本銀行や主要銀行、証券会社、百貨店、新聞社や放送局があり、博物館・美術館もある。政治・経済の中心地である。また都心部への機関、人口の集中が限界に達し、ターミナル駅を中心として新宿(1958-)、渋谷(1958-)、池袋(1958-)が副都心としてかなり発展している。さらに副都心に準ずる地域で交通の要衝であり、多様な機能を備えた複合拠点として品川(1982-)、秋葉原(2002-)の再開発が進められている。また東京近郊の新都心(新副都心)として、横浜みなとみらい21(横浜市・1965-)、幕張新都心(千葉市・1973-)、さいたま新都心(さいたま市・1989-)の3箇所が設置されている。ただし、汐留地区(1995-)は複合都市とされている。
下記の表の人口は、2008年7月1日時点の推計人口を元とする。なお、浜松市、静岡市のみ2008年8月1日時点の人口である。上位20位のうち、東京23区、横浜市、川崎市、さいたま市、千葉市、相模原市の6都市が首都圏に集中しており、東京への一極集中が著しいことがこのデータから判断できる。
青森市(青森県)| 盛岡市(岩手県)| 仙台市(宮城県)| 秋田市(秋田県)| 山形市(山形県)| 福島市(福島県)
水戸市(茨城県)| 宇都宮市(栃木県)| 前橋市(群馬県)| さいたま市(埼玉県)| 千葉市(千葉県)| 東京/新宿区(東京都)| 横浜市(神奈川県)
新潟市(新潟県)| 富山市(富山県)| 金沢市(石川県)| 福井市(福井県)| 甲府市(山梨県)| 長野市(長野県)| 岐阜市(岐阜県)| 静岡市(静岡県)| 名古屋市(愛知県)
津市(三重県)| 大津市(滋賀県)| 京都市(京都府)| 大阪市(大阪府)| 神戸市(兵庫県)| 奈良市(奈良県)| 和歌山市(和歌山県)
福岡市(福岡県)| 佐賀市(佐賀県)| 長崎市(長崎県)| 熊本市(熊本県)| 大分市(大分県)| 宮崎市(宮崎県)| 鹿児島市(鹿児島県)| 那覇市(沖縄県)
宇都宮市(栃木県)| 川越市(埼玉県)| 船橋市 / 柏市(千葉県)| 横須賀市 / 相模原市(神奈川県)
富山市(富山県)| 金沢市(石川県)| 長野市(長野県)| 岐阜市(岐阜県)| 豊橋市 / 岡崎市 / 豊田市 (愛知県)
高槻市 / 東大阪市(大阪府)| 姫路市 / 西宮市(兵庫県)| 奈良市(奈良県)| 和歌山市(和歌山県)
久留米市(福岡県)| 長崎市(長崎県)| 熊本市(熊本県)| 大分市(大分県)| 宮崎市(宮崎県)| 鹿児島市(鹿児島県)
水戸市 / つくば市(茨城県)| 前橋市 / 高崎市 / 伊勢崎市 / 太田市(群馬県)| 川口市 / 越谷市 / 草加市 / 所沢市 / 春日部市(埼玉県)| 厚木市 / 大和市 / 茅ヶ崎市 / 平塚市 / 小田原市(神奈川県)
長岡市 / 上越市(新潟県)| 福井市(福井県)| 甲府市(山梨県)| 松本市(長野県)| 沼津市 / 富士市(静岡県)| 春日井市 / 一宮市(愛知県)
四日市市(三重県)| 大津市(滋賀県)| 茨木市 / 吹田市 / 豊中市 / 寝屋川市 / 枚方市 / 八尾市 / 岸和田市(大阪府)| 尼崎市 / 宝塚市 / 明石市 / 加古川市(兵庫県)
人口は2000年(平成12年)の都市雇用圏のデータを元にしている。その他の定義による都市圏は都市圏 (総務省)を参照。
1970年代以降、急速な少子化、高齢化が進行しつつある。それに加えて、戦後のベビーブームで誕生した年齢層で人口の多い団塊の世代が相次いで定年を迎えるため(2007年問題と呼ばれる)、被扶養人口の爆発的増加が危惧されている。
日本には、100万人規模以上の人口を有する大都市が、各地方(四国地方を除く)に点在している。国民の多くはこれらの大都市、またはその周辺部で生活する。国土全体を対象とした人口密度調査においても領域国家としては世界有数の高さを示す(→人口密度)が、都市部では沿岸の平野部に集中しており、国土の1割に人口の9割が住む。また、日本海側に比べて太平洋側に人口が集中している。中でも特に、東京を中心とした首都圏の人口は、日本の人口の約3分の1を占め、世界最大の都市圏を構成している。そのため、都心部では土地の値段が高騰化し、ドーナツ化現象などの問題も起きている。
なお、2007年(平成19年)4月1日より新潟市(新潟県)と浜松市(静岡県)も政令指定都市となった。また、相模原市や熊本市の市長が2010年(平成22年)までに政令指令都市を目指すと表明している。
これらの理念を実現するため、統治機構は権力分立(三権分立)に基づいて配され、立法権は国会に、行政権は内閣に、司法権は裁判所に属する。
天皇は、日本国憲法に「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(憲法1条)と定められ、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」ものとされる(同条)。天皇は、憲法の定める国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しない(憲法4条1項)。ただし、国事行為のほか、象徴たる地位に基づく公的行為を行う。
日本内外にて天皇は元首として遇されることが多い。例えば、オリンピックの開会宣言は開催国の元首が行う慣例になっているが、日本で開催されたオリンピックでは天皇が開会宣言を行っている。また、CIA各国要覧の日本の項では、「chief of state: Emperor AKIHITO (since 7 January 1989)」と明記している。さらに、日本は「立憲君主制と言っても差し支えないであろう」というのが、日本国政府の公式見解である[32]。いずれにせよ、天皇が元首であるか君主であるかといった問題は、結局はそれぞれの定義によるものであることに留意を要する。
国の政治は、国会と内閣を中心に行われる。国会(特に与党)と内閣は、分立しながら協働して国政を行う議院内閣制を採る。
国会は、衆議院と参議院の二院からなる二院制(両院制)の議会である。国会は「国権の最高機関」であり、「国の唯一の立法機関」とされる(憲法41条)。衆議院・参議院は、いずれも全国民を代表する選挙された国会議員(衆議院議員、参議院議員)によって組織される。ただし、法律や予算、条約の議決、内閣総理大臣の指名、内閣不信任決議などにおいて、衆議院は参議院より強い権限が与えられている(衆議院の優越)。これは、衆議院には解散があり、任期も短い(衆議院は4年、参議院は6年)ため、衆議院の方がより民意を反映しているためと説明される。
内閣は、首長たる内閣総理大臣と、その他の国務大臣からなる合議制の機関である。内閣総理大臣は、国会議員(衆議院議員、参議院議員のいずれでもよい)の中から国会の議決によって指名され、天皇に任命される。国務大臣は、内閣総理大臣が任命し、天皇が認証する。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばなければならない。内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う。また、内閣は衆議院の解散権を持つ。
国会で審議され、可決される法律案の大多数は、内閣が提出する政府提出法案(内閣提出法律案、閣法)であり、国会議員が発議する法案は少ない。政府提出法案は、内閣の下に置かれる行政機関(省庁)が、国会の多数を占める与党との調整を経て作成する。行政機関の幹部公務員(キャリア官僚)の国政に対する影響力は、とても強い。国会議員の給源は、キャリア官僚、弁護士、地方議員などが多く、いわゆる世襲議員と並ぶ。
裁判所は、司法権のほかに法令審査権(違憲立法審査権)を持つ。これは、法令や行政行為などの合憲性を審査して、最終的に判断する権限である。もっとも、裁判所はいわゆる司法消極主義に基づき、国会や内閣など政治部門の判断への干渉は、控えることが多い。
国会では、1955年(昭和30年)に結党された自由民主党(自民党)が、一貫して最多の議席を占める。同年に結党された日本社会党(社会党)とともに、55年体制と呼ばれる政治体制を形作った。この体制は、自民党が与党として党の総裁を国会で内閣総理大臣に指名し、同党議員の中から国務大臣を任命して内閣を組み、社会党は野党として自民党と対立・協調しながら国政を運営するものである。新自由クラブと連立政権を組んだ1983年(昭和58年)から1986年(昭和61年)までの一時期を除き、1993年(平成5年)までの約40年間は自民党単独政権が続いた。
1993年(平成5年)に自民党羽田派が離党して新生党を結党し、非自民・非共産の連立政権である細川内閣が成立したことで、55年体制は崩壊し、自民党は政権を離れた。翌1994年(平成6年)6月に、自民党・社会党・新党さきがけの連立政権(自社さ連立)である村山内閣が成立したことで自民党は政権に復帰。次の橋本内閣以後、小渕内閣では自由党との連立(自自連立)、同じく小渕内閣で公明党を加えた連立(自自公連立)、森内閣・小泉内閣で自由党が抜けて自由党の一部からなる保守党(保守新党)が残った連立(自公保連立、自公保新連立)、保守新党が解党した連立(自公連立)など、常に連立政権を組むことで、自民党の総裁が内閣総理大臣となっている。
2008年(平成20年)9月現在、内閣総理大臣は自民党総裁の麻生太郎で、自公連立政権である麻生太郎内閣が組まれている。
日本国憲法は、地方自治の制度を定める。地方自治は、地方公共団体が担う。地方公共団体は、基礎的地方公共団体である市町村と広域的地方公共団体である都道府県の二段階の体制をとる。
基礎的地方公共団体としての市町村は、市が782、町が827、村が195の合計1804あり、このほか東京都の都心部に23の特別区がある(2007年(平成19年)4月1日現在)。市町村には、執行機関である市町村長と、議決機関である市町村議会(または町村総会)が置かれる。市町村長と議会の議員は、いずれも住民から選挙される。市町村は、その財産を管理し、その地域の事務を取り扱い、行政を執行する。また、市町村は、法律の範囲内において条例を定める。特に規模が大きい市は、政令指定都市として、一部の権限が都道府県から委譲される。
広域的地方公共団体としての都道府県は、都が1、道が1、府が2、県が43の合計47ある。都道府県には執行機関である都道府県知事と、議決機関である都道府県議会が置かれる。都道府県知事と議会の議員は、いずれも住民から選挙される。都道府県は、市町村を包括し、より広域的な行政を行う。都道府県も、法律の範囲内において条例を定めることができる。
現在、東京一極集中を緩和して地方分権を進めるため、都道府県を解消してより広域的な道州を置く道州制の導入が検討されている(日本の道州制論議)。
日本では、日本国憲法を最高法規とし、この下に、国会が制定する法律、内閣が制定する政令や各省庁が制定する省令などの命令、地方公共団体が制定する条例などの各種法令が定められる。裁判所は、すべての法令が憲法に適合するか否か判断する法令審査権(違憲立法審査権)を持ち、最高裁判所がその終審裁判所である。
日本国憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義などの基本原則と、統治機構を定める成文憲法であり、硬性憲法に分類される。日本国憲法は、1946年(昭和21年)に公布され、翌1947年(昭和22年)に施行されて以来、一度も改正されていない。長らく、主に戦争の放棄と戦力の不保持を定めた9条を巡って、憲法改正論議が行われている。なお、一部には現行憲法の制定に法的瑕疵があったとして、無効を主張し、今も旧憲法(大日本帝国憲法)が有効であるとする者もいる。
憲法と、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法の5つの法律を総称して六法という。この六法が日本の法令の基本を成し、日本の法律学の基本的な研究分野と考えられてきたことによる。民法は民事一般法であり、刑法は刑事一般法である。商法は商事一般法であるものの、企業に関する定めの多くは会社法に分けられた。民事訴訟法と刑事訴訟法は、それぞれ民事訴訟と刑事訴訟の手続法である。
日本の刑法には、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料と没収の刑罰が定められている。死刑制度のあり方を巡っては、日本国憲法制定当時から議論がある。議論の詳細は、死刑存廃問題#日本での動きを参照のこと。廃止派は国会や社会で運動を続けてきたが、国会議員と国民の中で多数派を形成できていない。日本における死刑の判決数は1971年(昭和46年)〜1987年(昭和62年)、1989年(平成元年)〜2003年(平成15年)の10件未満と比較して2004年(平成16年)・2005年(平成17年)は10件台、2006年(平成18年)・2007年(平成19年)は20件台に増加した。死刑囚は1948年度末は39人、1953年度末は93人に増加、1960年度末は51人に減少、1968年度末は82人に増加、1977年度末は16人に減少、2007年度末は107人に増加した。執行数は2007年(平成19年)度に1977年(昭和52年)以後では最多の9件に増加し、先進国で唯一、死刑執行数が増加傾向である(執行数が増加するか減少するかは法務大臣による差が大きいので増加傾向が続くか減少傾向になるかは未定である)[33][34][35][36][37][38][39][40]。判決数・執行数・死刑囚はアメリカ合衆国より少ない。
日本は法治国家であり警察権は法に従い行使される。日本の治安維持制度は内閣府の元に設置される国家公安委員会・警察庁と各都道府県の公安委員会・警察本部による二層構造になっている。各委員会は予算などの決定や大綱などの方針策定であり、実務は警察庁・警察本部が執り行っている。また、警察庁自体は指揮監督を主としており、実際の捜査などの業務は警察本部やその下部組織(警察署など)が運営している。日本固有の制度として交番制度があり、地域治安の確保の役割を担っている。警察組織とは別に沿岸警備隊・国境警備隊としての業務を目的に海上保安庁が国土交通省の外局に設置されている。
日本は銃刀法により銃・刀剣などの武器の所持を厳しく制限している。UNODC(United Nations Office on Drugs and Crime)の統計によると、国連加盟192国のうち犯罪と刑事司法の統計をUNODCに報告している国の中で、日本は殺人、誘拐、強姦、強盗などの暴力犯罪の発生率は著しく低く治安がよい国である(国の規模や質には大きな差があるので、国別の単純比較は比較対照として適切でない場合もあるが、日本は先進国である西欧・北欧諸国よりも暴力犯罪の発生率が低い。)[41][42][43][44][45]。日本の暴力犯罪の発生率が世界の諸国と比較してなぜ著しく低いのかの原因は解明されていない(銃規制をしている国は日本以外にも多数ある。イギリスの銃規制は日本と同等、罰則を考えると日本以上に銃規制が進んでいる)。
日本の犯罪に関する資料は、法務省は1960年度版以後の犯罪白書[46]で1926年以後の犯罪統計を、警察庁は警察白書[47]と警察統計[48]で1946年以後の犯罪統計を公開している。人口10万人中の刑法犯罪(刑法以外の特別法に対する犯罪は含まない)総数の発生率は1926年は1,179.2件、昭和金融恐慌・昭和恐慌・世界恐慌時代の1926年〜1933年は増加傾向で、1933年は第二次世界大戦終結前の最多の2,301.6件、日中戦争が進行した1934年〜第二次世界大戦が終結した1945年は減少傾向で、1945年は1926年以後の最少の986.3件である。第二次世界大戦終結後の1946年〜1948年の期間は増加傾向で、1948年は2,004.0件である。1949〜1954は減少傾向で1954年は1,541.7件、1955〜1970年は増加傾向で1970年は1,846.2件、1971〜1975年は減少傾向で1975年は1,495.2件、1976〜2002年は増加傾向で2002年は1926年以後の最多の2,897.5件、2003〜2006年は減少傾向で2006年は2,251.7件である。
1926〜2007年の全ての年度の刑法犯罪総数に対する罪種別の比率の1位は窃盗であり、2006年度の比率は53.3%である。1959〜2007年の全ての年度の刑法犯罪総数に対する罪種別の比率の2位は自動車事故による業務上過失致死傷(自動車事故以外の業務上過失致死傷は除く)であり、2006年度の比率は28.7%である。2006年度の刑法犯罪総数に対する窃盗と自動車事故による業務上過失致死傷の認知件数の合計の比率は92.0%である。日本の刑法犯罪総数の増減は、窃盗と自動車事故による業務上過失致死傷罪の増減が大きく影響している。
暴力犯罪も非暴力犯罪も各罪種の発生率は、1920年代後半〜1930年代前半に第二次世界大戦終結前の最多、または、統計がある1926年以後の最多を記録(人口10万人中の発生率は、殺人は1926年は4.14件、誘拐は2.46件、強姦は1933年は2.53件、傷害は1935年は42.29件、強盗は1929年は3.80件、放火は1931年は3.99件。)した。暴力犯罪も非暴力犯罪も各罪種の発生率は、日中戦争が進行した1930年代中期〜第二次世界大戦終結前後の1940年代中期は減少傾向で、第二次世界大戦終結前の最少、または、統計がある1926年以後の最少を記録(人口10万人中の発生率は、殺人は1944年は1.25件、誘拐は1945年は0.03件、強姦は1946年は0.81件、傷害は1945年は6.23、強盗は1941年は1.59件、放火は1945年は0.77件。)した。暴力犯罪の各罪種の発生率は、第二次世界大戦終結後の1940年代後半〜1960年代前半は増加傾向で、第二次世界大戦終結後の最多、または、統計がある1926年以後の最多を記録(人口10万人中の発生率は、殺人は1954年は3.49件、誘拐は1951年は0.63件、強姦は1964年は7.06件、傷害は1958年は80.63、強盗は1948年は13.57件、放火は1950年は2.26件。)した。暴力犯罪の各罪種の発生率は、前記の第二次世界大戦後の最高値を記録した後は、単年度や短期的な増減はあっても長期的には減少傾向で、1980年代・1990年代・2000年代は第二次世界大戦終結後の最少、または、統計がある1926年以後の最少を記録(人口10万人中の発生率は、殺人は1996年は0.97件、2007年は0.94件、誘拐は1983年は0.06件、2007年は0.16件、強姦は1996年は1.19、2007年は1.38件、傷害は1995年は13.92件、2007年は24.25件、強盗は1989年は1.29件、2007年は3.53件、放火は1989年は1.18件、2007年は1.19件。)し、第二次世界大戦終結後の最少、または、統計がある1926年以後の最少に近接した数値で推移している。財産犯罪や特別法に対する犯罪の各財種の発生率は、第二次世界大戦終結後は暴力犯罪と比較して、1946〜2007年の期間に増加期間と減少期間を繰り返している[49][50][51][52][53][54][55][56][57][58]。
事実上の軍事組織(軍隊)として自衛隊を有し、陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊がそれぞれ陸軍、海軍、空軍に相当する。担当省庁は防衛省、最高指揮官は内閣総理大臣。
準軍事組織は沿岸警備隊に相当する海上保安庁を持つ。日本は現在、陸上の国境を喪失しており国境警備隊は持たない。 警察は治安維持を目的とする文民警察のみを持ち、SAT等の対テロ部隊を擁する程度である。
自衛隊は専守防衛の観点から、陸上自衛隊は国土防衛と災害救助、海上自衛隊は対潜水艦戦能力と対機雷戦能力、航空自衛隊は迎撃戦と陸上・海上部隊の支援に特化した編成を取っている。一方、他国へ侵攻するための装備は保有していないため、海外への派兵能力は低い。
日本は第二次世界大戦以降、60年にも渡って直接の戦争を経験していない(厳密には朝鮮戦争で海上保安庁の掃海部隊が派遣されており、これが現時点での最後の日本の参戦となる)。海上自衛隊の自衛艦隊は古くから遠く海外にも派遣されており、陸上自衛隊、航空自衛隊も近年は自衛隊海外派遣に出されている。しかし、それでも他国と交戦した事はないため、実際の戦闘においての活躍は未知数である。
陸自の配置は北海道・東北に重点が置かれているがこれは冷戦期にソ連と対峙していた名残である。近年では中国と北朝鮮の脅威に対抗するため、部隊の西方移転が進められているが、駐屯地の移転などは簡単ではなくあまり進んでいない。
自衛隊の兵器は日本の高い基礎工業力を生かし、車両・艦船の多くと一部航空機は独自開発であり、他国製品であってもライセンス生産を行うなど、出来る限り兵器を国内で調達する傾向がある。
2006年(平成18年)の防衛予算の国内総生産 (GDP) に占める割合は0.92%で、GDPに占める割合の順位は世界の140位前後である[59]これは世界全体の平均値である2.0〜2.5%(統計の方法で異なる)よりもかなり低く、国力に比して低い予算しか与えられていない。また、自衛隊の兵員数や戦車数、作戦機数、軍艦数などから計算される部隊規模はどれも小さく、同盟国との相互補完や質の向上によって不足分を補う状態が続いている。近年は財政再建圧力から自主的な軍縮傾向が続いている。この軍縮は仮想敵国との軍縮条約などに基づく協調的なものではなく日本のみが軍縮を行う一方的なものであるため、防衛力が相対的に低下すると言われている。アメリカのシーファー大使は2008年5月20日に行われた日本外国特派員協会の講演にて、日本の周辺国の国防費が大幅に増加しているにもかかわらず、日本のGDPに占める防衛費の割合が低下し続けていることに懸念を示した[60]。
ただし、防衛費総額をドル換算して比較した絶対額は上位グループになる。ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の統計によると、2007年度の日本の防衛総予算は、為替レートベースでは436億米ドル(世界シェア4%)で、アメリカ、イギリス、中国(実質2位。純粋な防衛予算として計上される額こそ少ないものの、科学予算等として計上される関係予算が非常に大きいため)、フランスに次ぐ5位であり、購買力平価ベースでは370億米ドルで、アメリカ、中国、ロシア、インド、イギリス、サウジアラビア、フランスに次ぐ8位である[61]。その理由として、まず日本のGDPそのものが大きく国力が高い事、日本円が強い通貨であること、広大な領海とシーレーンを持つ事、周囲を軍事大国である仮想敵国に囲まれていること、規模が相対的に小さい故に人員・兵器ともに高品質なものを目指していることがあげられる。さらに他国に比べて人件費が高いこと、高性能・高コストな兵器を調達する傾向にあること。兵器の国産化を指向しているにもかかわらず武器輸出三原則により兵器の輸出を自粛しているため兵器単価が下がらないためなどの理由が挙げられる。2008年(平成20年)の防衛予算は4兆7797億円(本体予算4兆7426億円+沖縄に関する特別行動委員会費180億円+米軍再編関係費191億円)[62]。
人口に占める自衛隊員の割合は0.19%であり世界最低水準であるにもかかわらず隊員の削減が行われている。[63]2008年(平成20年)における自衛官の定員は25.1万人、実際の充足人員は約24.1万人で、そのうち陸上自衛隊が約14.9万人、航空自衛隊は約4.5万人、海上自衛隊は約4.6万人の現役隊員がいる。予備役に相当する予備自衛官は約5.9万人で現役隊員に対する割合が非常に低い。[64]自衛官は全志願制で特別職国家公務員としての地位が与えられる。
冷戦終結により東アジアにもたらされた平和の配当は僅かだった。2008年(平成20年)現在北朝鮮の核兵器開発や中国の軍拡、ロシアの復調など予断を許さぬ状況にある。特に中国は安全保障上の脅威がないにもかかわらず、20年連続で二桁成長の軍拡を続けている。台湾有事やチベット等への弾圧問題もさることながら、経済力・軍事力を背景にアジア地域の覇権を獲得しようとする行動が目立つ。将来それが東アジアの軍事バランスに大きな影響を与え、場合によっては日米と衝突する事が懸念されている[65]。それに対して、日本は日米同盟の維持と環太平洋地域との関係強化で対応を図っている。アメリカ合衆国とは日米安全保障条約によって軍事同盟の関係にあり、在日アメリカ軍が駐留している。さらに、オーストラリアとは日豪両国の安全保障に関する共同宣言が2007年(平成19年)3月に調印され、自衛隊とオーストラリア軍とのより緊密な協力が検討されている。
自衛隊の創設以来、自衛隊は日本国憲法第9条が謳う戦争放棄に反するのではないかという論争が続いている。現在、日本政府は憲法は自衛戦争を禁ずるものでないとする憲法解釈により自衛隊は合憲としているが、逆の解釈をする自衛隊違憲運動も根強い。この問題を解決するための改憲運動と、それに反対する護憲運動の対立が続いている。
自衛隊の法的根拠は自衛隊法であるがこれは軍法ではなく自前の裁判所たる軍法会議も持たない。これは日本国憲法第76条が特別裁判所の設置を禁じているためである。その為、有事の際に作戦行動を行うと殺人罪などの国内法で罰せられる可能性がある。この問題を緩和するため有事法制の整備が進められている。
自衛隊は文民統制下にあり、総理大臣が最高指揮官を務める。また、防衛省背広組は警察庁など自衛隊以外からの出向者が多数含まれている。戦前の陸海軍が大日本国憲法の統帥権を根拠に独立性を徐々に強めていったことへの反省から、文民統制の維持に非常に大きな努力がはらわれている。 また、自衛官の政治活動は制限されており、佐藤衆議院議員の立候補は自衛官を辞職した上で行われた。
外交の後ろ盾として軍事力は欠かせないものであるが、日本は紛争解決などの為に軍事力を行使する事を放棄している。
国内の安全保障としては、1980年代より海洋国家論の高まりと同時に、軍事的な自衛のみならず、経済・食糧・エネルギー・環境などの総合安全保障の重要性が、認識されるようになっている。各国との相互依存関係や協力関係、経済関係を安全保障の助けとする考え方である。ハードな安全保障としては、通商(海戦や通商破壊などの危険回避)や漁業の安全を維持する上でシーレーン防衛が不可欠であるとの見解があるが、一方で専守防衛の原則や集団的自衛権を行使できないという制約がある。世界中と貿易を行う日本のシーレーンが世界に広がっていることから、日本の自衛隊ですべてのシーレーンを防衛することは困難である。世界に軍事展開をし、同じく海洋国家として海洋の自由を標榜するアメリカ合衆国と安全保障上の協力を行うことで、日本の防衛コストを抑制した形での有効な海洋の安全を図っている。一方で、マラッカ海峡などの海賊やテロは東アジア全体の共通危機となっている。非対称戦争に対応した国際警察力の強化と、紛争の予防も課題となっている。
日本の主たる仮想敵国のうち、中国とロシアが核兵器の大量保有国である上、北朝鮮が核兵器開発成功を発表している。それに対して、日本は自国の核兵器開発を全否定しており、今後の予定もない(非核三原則にのっとり日本に核兵器が存在しないということになっている)。そのため、核抑止は専ら同盟国である米国の核の傘に頼っている。
自衛隊は実戦を経験していないため、その実力への評価はまちまちである。しかし、定評ある海外製兵器やそれと同等かより高性能と見られる国産兵器を多数持つこと、公開演習などを通じて知られる高い練度などが評価されている。
イギリスの経済誌エコノミストの調査部門であるEIU(Economist Intelligence Unit)が、平和度の指標となる24項目[66]を数値化した2008年(平成20年)の平和度指数の国際比較(世界平和度指数)[67]によると、日本は戦争・内戦・テロとそれによる死傷者が無く、軍事費のGDP比が低く、犯罪率が低いことなどが原因で、アイスランド、デンマーク、ノルウェー、ニュージーランドに次いで5位に評価された。
日本政府は外交の基軸として、国際連合を中心として各国と幅広い外交を行い、援助および貿易を行っている。さらに、同盟国のアメリカ合衆国を最重要視し(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)、また伝統的に東アジア各国と強い関係(時に敵対を含む)を保ってきた。
海外での日本像は戦前は軍事力、戦後は経済力でのイメージが強い。現在では日本料理が多くの国で受け入れられているほか、日本はテレビゲーム、日本の漫画やアニメなどなど文化の発信地となっており、文化大国として国際的に認識されることも多くなってきている
かつて国際連合の前身である国際連盟を脱退し、第二次世界大戦を連合国(United Nations)と戦い敗れた(現在も敵国条項は削除されていない)。1956年(昭和31年)に日本はソ連との国交を回復し国際連合(国連)への加盟を果たした。国連においては非常任理事国として最多の10回選出されている。また世界第2位の国連分担金を支払っている。国連改革の一環としてドイツ、インドらと常任理事国の拡大と加盟を訴えているが、拒否権を持つ現常任理事国、特にアメリカと中国の反対に遭い、挫折を余儀なくされた。
国連の日本人職員の数は少ない。その理由として日本語が国連公用語に数えられていないこと、国連で軽視されていること、(事実上アメリカ至上主義で)国連が軽視されていること等が指摘されている。日本の教養層の多くは、その多大な貢献に比べ、その恩恵及び評価を受け切れていないと指摘している。
海外派兵には消極的で、国連の武力行使自体は支持しても、経済援助のみという慎重姿勢を取ることが多かった。しかし、こうした姿勢には国際的な批判が強く、湾岸戦争においては日独は巨額の戦費負担をしたにもかかわらず、戦力を出さなかったため、国際的に非難され、特にイラクに攻め込まれたクウェートの評価は最低に近かった。こうした情勢を背景に近年では海外派兵についての世論も変わりつつあり、PKO協力法などの法案が成立し、いくつかの課題を残しつつも自衛隊を海外に送るための法的根拠が整った。また、防衛庁が防衛省に昇格して海外派遣が主任務へと変わった。以降、イラク戦争終結後、自衛隊を派遣して復興支援活動に携わるなど、軍事力を外交に活用する機会も増えている。
アメリカ合衆国とは、軍事・経済・政治全てにおいて緊密かつ重要な関係を築いている。古くは黒船来航から始まる経済協力はアメリカの経済力を背景に大きなものであり続け、2006年(平成18年)まで最大の貿易相手国だった(最大輸出相手国としては現在は中国)。太平洋戦争(第二次世界大戦)では東アジア・西太平洋地域(当時の大東亜)で、4年間戦った末降伏し、米軍を主軸とした占領軍に占領され、今も米軍基地が日本中に残っている。
戦後の安全保障は日米安保条約を基礎としている。日本は米軍に基地と予算を提供し在日米軍を受け入れている。沖縄その他の在日米軍の軍事基地問題を巡り、日本・アメリカ合衆国の間で政治的課題がしばしば発生し、両国民の感情問題に発展することがある。また経済面において貿易競争や市場参入障壁など慣習面での差異がしばしば両国民の感情的な摩擦を招いている。
歴史的には日本の外交は地理的に近い中国や朝鮮など東アジア諸国を中心に行われていた。欧米をはじめ世界中との国交が盛んになるのは明治維新以後の事である。近隣であるが故に地政学上の対立が常に存在している。すなわち、日本と韓国、台湾はそれぞれ極東米軍と同盟・協力関係にあり、北朝鮮は中国と軍事同盟を結んでいる。また韓国とは竹島で、中国・台湾とは尖閣諸島で領土問題を抱えている。
日本は漢字文化圏、儒教文化圏の一角であり、伝統的な日本の文化には東アジアの文化をルーツにもつ物が多い。代表的なものは水墨画、陶磁器、禅宗、書道の習慣などである。明治以降は逆に西洋文化を取り入れて発展した日本の文化が東アジアに伝播することが増えた。
台湾と韓国は日本とは重要な貿易相手である。中国も改革開放政策後は経済的な成長を遂げ、多くの日系企業が生産拠点を持つ。中国は2006年(平成18年)より貿易総額でアメリカ合衆国を上回り、最大の貿易相手国となった。一方、北朝鮮に対しては経済制裁中である。
第二次世界大戦敗戦前、世界が帝国主義時代だったころ日本は軍事力を背景に東アジア地域に進出した。その事は歴史問題となっており、日本が歴史について発言するたび、中国、北朝鮮、韓国が発言内容が不適切と批判するサイクルが幾度となく起きてきた。
一方で日本では、反日暴動などに代表される各国の反日感情が盛んに報道されたほか、北朝鮮の国家犯罪への反発が1990年代後半から高まっている。2008年6月、アメリカの民間調査機関ピュー・リサーチ・センターの調査で、中国を好ましくないと答えた割合は84%(前年比17%増)となり、調査した24カ国の中で、最も高い割合だった。一方、中国は前年比から9%減少したが、それでも69%が日本を好ましく思っていないという調査結果となり、両国民の間は依然として反発していることが明らかとなった。
しかし四川大地震で日本の救助隊が率先して受け入れられたことから、中国では対日感情が好転したと報道されている。中国は日本と経済的・文化的に極めて密接な関係にあるゆえに日本に対しては様々な感情が存在し、しかも状況によって変化しやすい。日本からの視点で中国を一方的に「反日」「親日」と簡単に割り切ることはできない。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)とは現在、国交が存在しない。北朝鮮は日韓併合に対する評価や賠償問題・請求権問題のいずれについても決着していないとする姿勢を取っている。日本政府は日韓基本条約において朝鮮半島の正統な政府は韓国政府であるとの立場を取っているため、北朝鮮政府を政府と認めていない。また賠償問題も韓国との条約によって解決済との立場を取っている。2002年(平成14年)の日朝首脳会談では賠償権を相互に放棄し、日本から北朝鮮が経済協力を得る方法で合意したと発表されたが、その後、国交正常化交渉はストップしている。その背景には日本人拉致問題や不審船事件に代表される北朝鮮の国家犯罪に対する日本世論の反発や核開発問題などで孤立を深める北朝鮮の現状がある。これらの問題を受けて、日本は現在経済制裁を北朝鮮に対して行っている。北朝鮮は核カードを使ってアメリカからテロ指定国家解除を引き出したが、アメリカはそれよりも厳しい制裁措置に移行させただけである。
韓国とは殖民地支配の影響で嫌日感情が強いが、アメリカとの同盟下、韓国では親米軍事政権が独裁を敷き、反共・反日教育を行うと同時に上から反日感情を抑えてきた。金大中政権で日本の大衆文化が自由化されて日本に親近感を持つ人々が増加すると同時に、民主化が進むとともに反日感情も浮上してきた。日本の右傾化への反感や領土問題である竹島問題も加わり、盧武鉉政権では嫌日運動が活発化した。そのため日本外交(拉致問題、常任理事国入りなど)は韓国の反対にあって難航し、日本人の韓国への感情は悪化した。
それぞれ米軍現在日本政府は中国に配慮し台湾を独立国家として承認しておらず、双方大使館を配置していない代わりに民間の利益代表部を置いている。 台湾(中華民国)は日清戦争で日本に割譲されて以来50年間の日本統治時代を経験し近代国家の礎を築いた。その後、連合国の一員として日本に戦勝しながらも共産党に大陸を追われた国民党が台湾を支配することになる。日本と中華民国は旧敵国であったが、反共の立場をとる西側陣営に所属した。安全保障においては台湾は台湾関係法などを背景に米軍と密接な関係にあり、日米同盟を持つ日本と間接的な協力関係にある。日本と台湾は互いに尖閣諸島の領有を主張し、たびたび係争が起きていたが深刻な対立には至っていない。日本との人的経済的な交流は一貫して盛んであり日本国外で初めて日本の新幹線システムを採用した。政局は国民党と民進党の二大政党であり、民進党の方が親日姿勢が強い。
東南アジア諸国とは基本的に友好関係を構築しており、タイ、フィリピン、マレーシアなど経済的にも文化的にも関係が深く、互いの国民に対する感情も良いとされる。また、日本はこれら各国との自由貿易協定 (FTA) の締結を模索している。
カンボジアへは経済面での支援を行っており、また文化面では共産主義ポル・ポトにより破壊弾圧された仏教的施設・信仰の復興に日本の仏教界は大きく貢献している。地雷の撤去活動なども精力的に行われている。
スマトラ島沖地震では、日本は金額で国別3位の支援を早急に決めて拠出し、さらにインドネシアのアチェ州へは自衛隊の艦艇の派遣が決定している。防災システムの構築にも支援を行うことを約束している。
以上のように、日本と東南アジアの関係は基本的に良好な状態にある。日本政府は東南アジア諸国連合 (ASEAN) 諸国との間で定期的に首脳会談を行っており、東南アジア諸国との関係を重視している。また、この地域の海域(特にマラッカ海峡)は、日本が中東から輸入した原油の9割近くが通過するなど日本の貿易上非常に重要なルートであるが、海賊が頻繁に出没している。その対策として、海上保安庁が東南アジア諸国の沿岸警備隊に対して指導・共同訓練を行っている。
日本は南アジア各国とも友好関係を保っている。しかし、日本は被爆国であるため、インドおよびパキスタンが核実験を行ったことからこれら核保有国とは距離を置いていた時期もあった。特に、パキスタンに対しては1998年(平成10年)の地下核実験から2005年(平成17年)4月まで援助を停止していた。
しかし、自衛隊イラク派遣などで、安全保障の観点から中東への影響力が強いパキスタンの協力が必要と感じた日本政府は、当時の小泉純一郎首相がパキスタンを訪問したのを機に有償資金援助を再開した。そしてインドは近年の著しい経済発展や、情報技術での実績が注目されており、外務省は2006年(平成18年)にアジア大洋州局の中に新たな部門として南部アジア部を設立している。またG4として共に行動するなど関係強化を目指している。さらに2008年10月には、両国首脳が日印安全保障協力共同宣言に署名し、日本にとって、インドはアメリカ、オーストラリアに次いで、安全保障分野で正式な協力関係を結んだ3番目の国となった[68]。
世界最貧国の一つとも言われるバングラデシュに対して、日本は経済、保健、自然災害対策など多くの面で援助を行っている。
中央アジア諸国は、かつてシルクロード経由で日本に対しても文化的影響を持っていたが、近年の人的交流は少ない。また、経済基盤は貧弱な国が多く、さらに海に面していないために輸送コストなども高騰するなどの理由から、一部の希少な地下資源を除いて、貿易などの経済的関係も他地域と比べて活発とは言えない状況にある。
日本は、アメリカ合衆国が行ったアフガニスタンへの武力攻撃は支持したが、自衛隊はインド洋への派遣に留めている。
ただし、この地域に栄えた古代王朝や仏教遺跡の研究など、学術関係での交流は活発である。バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群の修復などに、日本は多額の援助を行っている。
西アジアは日本の主要な原油供給元であり、経済的には密接な関係を保っているが、文化的交流は比較的少ない。ただし、宗教的な対立要因がないために住民の対日感情は比較的良好とされる。トルコ・エジプトなど治安が比較的良い国は観光地として人気がある。また、イラク戦争では、第二次世界大戦後初めて、戦闘地域であるとの議論もされるイラクへ自衛隊を派遣した。
イスラエルとは経済・文化ともにこれまでのところ交流は薄い。また中東和平に関しての日本の立場は中立であり、大臣・政府高官が訪問する際にはイスラエル・パレスチナ自治政府の双方と会談が設定される等バランスが図られている。
日露関係は、領土問題や満州への進出、東西冷戦などで対立する時期が長かった。その緊張が最も高まった事件としては、1904年(明治37年)に始まった日露戦争や、太平洋戦争集結直前のソ連対日参戦などが上げられる。1986年(昭和61年)以降関係の改善が進み、現在は両国の間には盛んな経済的交流があるが、北方領土問題、漁民銃撃・拿捕事件・資源問題(サハリン2で突如開発の中止命令が出された)などが生じている。
また国民感情においては、近年の日本ブームによってロシア国民の対日感情は概ね良好である。しかし、日本側は前述の北方領土問題や油田問題なども手伝い、全体としては良くないとされるが、実際のところ国民の目がロシアへ向く機会があまりない。
第二次世界大戦以降、日本は西ヨーロッパを中心としたNATO諸国と間接的な同盟関係にあった。欧州連合冷戦崩壊を経て東方拡大を続けておりNATO加盟国も増加の動きがある。 また、ドイツは日本と共に常任理事国を目指すG4のパートナーとして行動している。また日本の皇室は、イギリスやスウェーデン、ベルギーなどの欧州各国の王室と深い友好関係を築いている。一方で第二次大戦で交戦したことによる悪感情が一部に残っており、特に植民地を失ったオランダなどが反日感情が強いといわれてる。
中央アメリカ(中米)諸国の中で、日本と最も関係が深いのはメキシコ合衆国である。明治の開国以降に結ばれた日墨修好通商条約は、それまで列強各国の不平等条約に苦しめられてきた日本にとって、初めての平等条約である。その関係で、数ある諸外国の大使館の中でも国政の中枢地区ともいえる永田町にあるのはメキシコ大使館のみである。日本企業が多数メキシコに進出しているなど経済的な関係も深い。
その他の中米諸国とはそれほど人的・文化的交流はないものの、経済的な関係を中心に平穏な関係を持っている。また、キューバなどの社会主義国家とも経済・文化両面で友好的な関係が築かれており、ペルー日本大使公邸占拠事件でも協力した(日本政府の要請に対し、キューバがゲリラの亡命受け入れを受諾)。
日本と南アメリカ(南米)は地理的に地球のほぼ正反対に位置しているが、1872年(明治5年)にマリア・ルス号事件をきっかけにペルーとの修交が始まり、1898年(明治31年)にロシアとの戦争に備えてアルゼンチンから軍艦リバダビアとモレノをそれぞれ春日、日進として購入し、それらが日露戦争で活躍したことから本格的な関係が始まることとなった。
また、かつて南米諸国は日本からの移民を大量に受け入れた経緯から、その関係は深い。特にブラジルでは、約180万人という海外で最大規模の日系人社会が築かれていることもあり、政治経済のみならず、文化的な面からも非常に深い関係を保っている。また、ブラジルはG4として日本と共に国連常任理事国を目指していることもあり、国際政治上で連携することも多い。
同じく多くの移民が渡り、ラテンアメリカで二番目に日系人人口の多いペルーは日系人大統領(アルベルト・フジモリ、スペイン語ではフヒモリとなる)が1990年代に就任したことで急速にその関係が緊密になったが、その後失脚し、後日フジモリは日本に政治亡命していた。
貿易関係ではチリとの関係が特に大きく、戦前から友好関係が続くアルゼンチン、パラグアイといった親日的な国家も多い。特にマルビーナス戦争(フォークランド紛争)中、アメリカ・イギリス・ECの再三の要請にも関わらずアルゼンチンへの禁輸措置を行わないなど、日本が採った独自外交は、アルゼンチンの知日家からは高く評価されている。
日本はオセアニアで最大の影響力を持つオーストラリアと非常に緊密な関係を築いている。日米豪の防衛首脳の会談が行われたこともあり、経済、軍事、外交などで共同歩調を取っている。2007年(平成19年)3月には、自衛隊とオーストラリア軍が国連平和維持活動(PKO活動)の共同訓練、反テロ活動や津波などの地域災害に協力して当たることなどが盛り込まれた共同宣言に調印した(安全保障協力に関する日豪共同宣言)。これにより、オーストラリアは日本にとってアメリカ合衆国を除いて安保分野で正式な協力関係を結ぶ初めての国となる。
また、南洋諸島の各国は、かつて日本が委任統治領、もしくは占領地として統治下に置いていたこともあり、日本との関係は比較的深い。パラオは、かつて日系の大統領クニオ・ナカムラが就任しており、一部自治体で日本語が公用語として採用されているなどの経緯もあってか、官民合わせて非常に親日的である。
日本とアフリカ諸国は、地理的には遠く歴史的にもほとんど関わりがなかったこともあり、現在も人的交流などはさほど行われておらず、観光地としても一部を除いてそれほど人気があるわけではない。主に地下資源の輸入と工業製品の輸出という貿易のみの関係に終始していた。ただしアパルトヘイトで世界から孤立していた南アフリカ共和国には多くの企業が進出し、以前から比較的密接な関係を築いていた。
近年は日本はアフリカ諸国に大使館を増やすなど関係強化に乗り出している。その背景として中華人民共和国(中国)がアフリカ諸国との関係強化を行っている情況がある。中国がアフリカ諸国との関係強化を進めていることは、資源確保や国連の票固めなどが目的であると指摘される。アフリカ諸国との関係強化に関して、人的交流が少ない日本は弱い立場に置かれている。中国は現地に住む多数の華僑などを活用して面的攻勢を進めている。
なお、サッカーなどスポーツの分野においては、アフリカ諸国を日本に招いた試合が行われており、良好な関係を築いている。
日本はロシア連邦、中華人民共和国、中華民国、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国との間で領土問題を抱えている。
ロシアとの間には北方領土問題がある。これは、第二次世界大戦前の時点で日本が領有していた歯舞諸島、色丹島、択捉島・国後島を含む千島列島(ロシアは「クリル諸島」と呼んでいる)、南樺太 (サハリン)において、第二次世界大戦の終結が決定的となる日本のポツダム宣言の受諾(1945年8月14日)後に、ソ連軍が1945年8月28日から9月5日にかけて、これらの領土に侵攻し占領、以後ソ連時代から引き継いだロシアが現在に至るまで実効支配しており、両国の間で領土問題となっているものである。 ロシア(ソ連)は戦争によって獲得した領土であるとの主張に対し、日本は、これらの領土はソ連からロシアに至るまで不法に占領・支配を続けているとして、領土の返還を求めている。歯舞諸島・色丹島についてロシアは日ソ共同宣言を根拠に日本への返還を提示していたが、日本側が択捉島・国後島を含む4島の一括返還を理由に拒否した。また日本側からは、択捉島-得撫島間での国境策定にロシア側が同意すれば引き続きロシアによる統治を認めると言う提案が行われたが、この提案はロシア側から拒否されている。2007年(平成19年)になってロシア側から面積二分割案が提示されたが、なお解決される目処はたっていない。また共産党や保守派及び右翼の中では千島全島ないし南樺太(全樺太の場合も)の返還を求める主張もある。
中華人民共和国 (中国) との間では、東シナ海の排他的経済水域を巡っての領土問題が起こっている。これは東シナ海で両国が主張する排他的経済水域の範囲の違いによるものである。日本は両国の国境の中間線を境界線として主張し、中国はユーラシア大陸の大陸棚部分は中国の域内と主張する。国際的には日本の主張が大勢であるが、中国と同様の主張をする国も存在し、現在議論は平行線をたどっている。
近年この問題が重要化したのは、この水域の境界周辺の地下に、豊富な天然ガスの存在が明らかになったからである。中国はこの問題に対して、天然ガスを採掘するプラント(春暁ガス田)を、日本が主張する境界近辺(ただし、境界よりは外側である)に建設するなど強硬な姿勢を取っている。日本はこれに対して、日本側の資源も採掘される可能性があるとして抗議している。また、中国に対抗して日本もこの海域での試掘権設定を行い、国内企業の一つがこれを取得した。中国側は日中での共同開発を提言しているが、日本側はこの共同開発を中国に有利な条件と認識しており、依然解決の糸口は見えていない。日本は国連の国際司法裁判所で判断を求めようとする立場をとっているが、中国はこの件を裁判所に提出しようとはしていない。
尖閣諸島(中国名: 釣魚台列島など)に対しては、日本のほか、中華人民共和国 (中国) 及び台湾(中華民国)が領有権を主張している。現在は日本が実効支配している。中国としては前号の経済水域問題の絡みもあり、また中台間の問題も絡み複雑化の様相を呈している。尖閣諸島の領土問題が表面化したのは、1970年代初頭に東シナ海において天然ガスが発見されたためである。中国と台湾の主張に対抗するために、日本の右翼団体が度々ここに上陸し、灯台を建設するなどした。この灯台は現在、日本国政府の管理下におかれている。2005年(平成17年)、台湾の漁民が日本の海上保安庁による取り締まりに対し海上で抗議デモを行った。
竹島(韓国名:独島)は、日本の島根県、隠岐島から北西約157km、大韓民国、慶尚北道の鬱陵島から約92kmに位置する2つの岩礁からなる小島である。この島を巡り、日本は自国の領有権を主張しており、韓国は1950年代初頭から領有権を主張し始めて、対立している。
韓国併合以前に、竹島が日本と韓国(朝鮮)のどちらの領土だったかについては議論の対象となっている。竹島は、1905年(明治38年)の閣議決定・島根県告示による島根県編入で日本の領土となったが、韓国政府は「秘密裏に、また強制的に行われたものであり、法的根拠は持たず無効である。」と主張している。これに対して日本政府は「国際法に則った適法な手続きがなされたものであり、また新聞などでも報道されており秘密裏に行われたとの指摘は当たらない」と主張している。 独立以降韓国は、李承晩ラインを一方的に設定し、李承晩ライン内に入った日本の漁船と漁民を拿捕し、釜山収容所に抑留した。また、漁船が相次いで銃撃され、多数の死傷者が出た(第一大邦丸事件など)。この頃から竹島領有問題が浮上した。その後の日韓国交正常化交渉で、日本側が李承晩ラインの不当性と竹島の領有を強く主張し、1965年(昭和40年)に李承晩ラインは廃止となった[69]。
1954年(昭和29年)7月に韓国海軍がこの島を占領し、1956年(昭和31年)4月 から海洋警察が引き継いで駐屯している。これに対し、日本は韓国による不法占拠として抗議し続けている。また、日本は領土問題解決のために国際司法裁判所への付託を韓国に提案したが、拒否されている。
この島は韓国国民にとっては独立の象徴と考えられていることや、竹島周辺の海域が豊かな漁場であること、また莫大なメタンハイドレートが埋蔵していると推測されていることや大規模な海底油田がある可能性も指摘されており、このようなことがこの問題の解決を難しくしている。
なお、この海域周辺にはかつてニホンアシカが生息していた最後の海域でもあり、調査こそ行われていないが、生存の可能性がわずかながら指摘されているも、現状での調査は不可能で、何よりも韓国によって軍事要塞と化した竹島では既に絶滅したとの見解が強い。
日本と中華人民共和国(中国)の見解が対立している。日本は島であると認識している。一方中国は、日本の領有権は認めているものの、2004年(平成16年)ごろから国連海洋法条約121条3項に基づき島ではなく「岩礁」であると主張し、日本の排他的経済水域を認めない立場をとる。
与那国島の西2/3が、沖縄県のアメリカ占領期に東経123度線に沿って設置された防空識別圏(ADIZ、アディズ)を引き継いでいるため、台湾の管理下にある。現在、日本と台湾は関係が良好であるため情報のやりとりはスムーズに行われているが、台湾有事においては防衛上の重要な問題となる可能性が高い。2005年末から2006年にかけて台湾側が防空識別圏を与那国島から外して運用していた事も判明しているが、特に取り決めなどが交わされているわけでもなく、曖昧なままである。(→与那国空港を参照)
近年、渡航する日本人が増えたことにより、渡航する日本人が犯罪に巻き込まれるケースが増えている。特に米国のアメリカ同時多発テロ事件以降は、中東をはじめ、テロ活動が盛んな地域では爆破事件や邦人の拉致、監禁事件などが多発している。有名な例としては、イラク日本人人質事件、アフガニスタン日本人拉致事件などが起き、2005年には武装勢力に日本人が殺害されてる事件もおきた。また2002年には日本人旅行客がニューカレドニアのリゾート地で地域の風習や文化をよく知らずに無断で聖地に侵入し、現地民に殺害されるという事件もおきている。
タイ、ミャンマーなどの南アジア、フィリピンなどの東南アジアでは日本人旅行者による現地民の未成年売春行為などが多発し問題化している。日本国では国内外を問わず、児童買春をした場合、5年以下の懲役、または300万円以下の罰金を科す児童買春禁止法を定めているがルールを守らない者もおり、現地における日本国・日本人のに対するイメージを損なっている。[4]
第二次世界大戦後の日本は、家族や地域社会での相互扶助を重視しつつ、憲法が人権の種類の一つとして定める、国民が健康で文化的な生活をする社会権の実現を目ざした。政府は、国民の生活において最低限の福祉サービスを児童保育、学校教育、職業訓練、雇用保険(1974年(昭和49年)以前の失業保険)、障害者介護・自立支援、生活保護、国民年金といった行政サービスとして提供しつつ、企業年金制度、退職金制度といった企業福祉を充実させる政策をとってきたが、近年は企業福祉から疎外された非正規雇用者が増加する一方、アメリカ合衆国型の低福祉・低負担化[70]が目指され、その結果として健康で文化的な生活をする必要最小限の生活が出来ない貧困層の存在が社会問題になっている。
1961年(昭和36年)以降、「国民皆保険」とされ、生活保護の受給者などの一部を除く日本国内に住所を有する全国民(および日本に1年以上在留資格のある外国人)が何らかの形で健康保険に加入するように定められている。近年、所得水準が低く保険料を支払えない人の増加が社会問題になっており、社会保障の一元化などが課題となっている。
厚生労働省 によれば、日本国民の2006年(平成18年)度の平均寿命は[71]男性79.0歳、女性85.8歳であり、世界保健機関 (WHO) によれば[72]世界一長寿である。また、健康寿命でも男性72.3歳、女性77.7歳(2001年(平成13年))となっており、これも世界一長寿となっている。
日本人の死因は、戦後すぐでは結核などの感染症が多かったが、現在では一に悪性新生物(癌)、二に心疾患、三に脳血管疾患と、生活習慣病を中心とした慢性疾患が主である。しかし、今日でも先進工業国の中で日本人の結核死亡率の高さは突出している。
世界最低レベルの周産期死亡率・平均余命を達成している一方、WHOの2004年度の統計値によると、人口千人あたりの医療職員数は、医師は1.98、歯科医師は0.71、看護師は7.79、助産師は0.19、薬剤師は1.21であり、経済的に豊かな国(国民一人当たりのGDPが20,000ドル以上)の中でも最低(最低グループ)[73]であり、開発途上国と比較しても日本より上回っている国は多数あることから、人口比の医療職員数の不足が指摘されている。GDPに対する保健支出の比率は7.8%、保健支出に対する政府の負担比率は81.3%で、経済的に豊かな国の中では標準的な水準である[74]。急速に進む出生率の低下・労働世代人口の減少・高齢化社会への対応として、国民健康保険料の増額、医療費自己負担分の増加、後期高齢者医療制度の導入など、国民の負担は増加する傾向にある。国会・政府の医療費抑制の政策により、近年医療サービス水準は低下しており、病院の70%が赤字経営で、産科の廃止や夜間救急医療の廃止など医療サービスの機能停止が各地で問題となっているが、有効な対策が提示されていない。もっとも中小企業の赤字率は2006年(平成18年)の民間推計[5]で71.34%であり、病院経営が他の産業に突出して不振であるということは示さない。これは税制に理由があり、家族経営の中小・零細法人の場合、法人収益を計上して株主配当により分配するより給与分配したほうが税制上有利になるという事情による。
日本では大学の医学教育や基礎医学研究の場における感染症や寄生虫症の扱いが、先進工業国の中でも突出して後退しており、麻疹輸出国として以前より非難されている。また海外からの病原体移入や海外旅行者の帰国後の感染症・寄生虫症発症に対する態勢に危惧が抱かれている。
現在の日本は少子高齢化が進んでいる。 明治以降、日本が近代化する過程で乳児死亡率低下、国力上昇により人口の激増がおこったほか、戦後のベビーブーム(団塊の世代)により若年者ほど多いピラミッド状の人口構成だった。しかし、高度成長期以降は少子化が進み、一人の女性が生涯に産む子供の数は世界でも最少レベルの1.3近くまで低下、人口減少に転じた。その原因として、経済的に豊かになったこと、医学と医療技術の向上により死亡率が減少したこと、教育水準が向上し教育費負担が大きくなったこと、公的な育児支援制度が不足していること、長時間労働により育児の時間が不足するとともに仕事と育児の両立が困難なこと、核家族化によって祖父母の助けが減ったこと、地域社会の助け合いが薄れたことなどが複合的な要因として指摘されている。政府は出生率の低下を深刻な問題と認識し、現在の人口を維持できる2.0?2.1前後まで増加させようと考えているが、政府や社会として有効な対策がなされず、出生率が著しく低い状況を解消できる見通しはたっていない。
経済的に豊かになったことと、医学と医療技術の向上により、日本は平均寿命と平均健康寿命が世界で最も高い国になったが、それは高齢期の生活に介護が必要な人口の増加をもたらした。日本では要介護者の介護は伝統的には家族が行なっていたが、長時間労働により介護の時間が不足するとともに仕事と介護の両立が困難なこと、祖父母・父母・孫子の複数世代同居家族から父母と子の家庭に変化したこと、高齢者が夫婦二人や一人住まいの状況がよくあること、地域社会の助け合いが薄れたことなどが複合的な要因となって、家族による介護が困難になり、2000年(平成12年)に介護保険制度が創設され、介護を家族と行政と地域社会の協力で行う政策に転換した。しかし、制度や運用の経験が不十分なこと、介護の仕事は激務であるが介護報酬が低額で介護事業者や介護労働者が十分な収入を得られないこと、行政の予算不足により福祉に必要十分な予算が無いことなどの複合的な要因により、要介護者やその家族からの様々な需要に対して、必要で十分なサービスは提供できていない。
警察庁の統計[75]によると、1978年(昭和53年) - 2006年(平成18年)の期間で、自殺者数と人口10万人あたりの自殺率の推移を見ると、自殺率が最も高かった年度の(自殺件数と)自殺率は、2003年(平成15年)の(34,427)27.0、男性は(24,963)40.1 女性は(9,464)14.5である。自殺率が最も低かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1991年(平成3年)の(21,084)17.0、男性は(13,242)21.7、女性は(7,842)12.4である。2006年(平成18年)は(32,155)25.2、男性は(22,813)36.6、女性は(9,342)14.3である。1978年(昭和53年) - 1997年(平成9年)は(20,788 - 25,202)17.3 - 21.1だったが、1998年(平成10年) - 2006年(平成18年)は(31,042 - 34,427)24.4 - 27.0である。厚生労働省の統計[76]によると、1955年(昭和30年) - 2006年(平成18年)の期間で、自殺者数と人口10万人あたりの自殺率の推移を見ると、自殺率が最も高かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1998年(平成10年)の(32,122)25.4である。自殺率が最も低かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1967年(昭和42年)の(14,268)14.2である。1961年(昭和36年) - 1974年(昭和49年)は(14,268 - 19,283)14.2 - 17.4だったが、1998年(平成10年) - 2006年(平成18年)は(29,671 - 32,414)23.3 - 25.4である。WHOの2007年(平成19年)の統計[77]によると、WHOに自殺統計を報告している101か国の中で、日本の自殺率は高い順に11位であり、人口一人当たりのGDPが20,000ドル以上の経済的に豊かな国の中では高い順に1位である。政府は自殺問題を重要な課題と認識し、日本が先進国の中で最も自殺率が高い原因について、宗教的要因・日本人の死生観など様々な原因が仮説として提示されているが、現時点では原因は明確に解明されていない。ただし、諸外国と比較して、社会全体で自殺を包括的に予防する対策の不備が指摘され、包括的予防対策の整備を求められている。2006年(平成18年)に自殺対策基本法[78]が制定されたが、自殺予防に関する基本的な考え方を規定しているが、具体的な政策・制度は規定していないので、自殺率減少は実現できず、政府や社会として有効な対策は実施されていない。
日本では資本主義の経済をとっており、日本は国内総生産(GDP、MER: ドル時価換算)比では世界第2位の経済力の大きい国であり、日本の経済動向は世界経済に大きな影響を与える。しかし1990年代以降はその比率を落としてきている。国内総生産 (GDP) は、ドル換算ベースで世界第2位、購買力平価 (PPP) で世界第3位である。ちなみに一人当たりのGDPはOECD諸国の中で18位である。また、世界のGDPの総額に占める日本のGDPの割合は9.1%である。通貨単位は円 (\, yen,JPY)。
他国と比較して生産量が多い農産物は、生糸、キャベツ、米、サツマイモ、タロイモ(主にサトイモ)、茶、ホップ。米は日本人の主食ではあるが、生産量は1100万トン(世界シェア1.9パーセント)にとどまる。これは他に米を主食とする諸国が多いためである。キャベツとタロイモ栽培は世界第5位。畜産では養鶏が盛ん。鶏卵採取量は世界3位である。漁獲高は2002年(平成14年)時点で世界第5位(440万トン)である。しかし、日本で消費される食糧の60パーセントを輸入に頼っているため、食料自給率は40パーセントと世界的に見てかなり低い。[79]。食糧輸入は世界中から行っている。農業従事者の高齢化が進んでおり、将来の日本農業の担い手をどのように育成していくかが課題である。近年では国民の食の安全への関心が高まったことから国産ブランドの需要が回復しており、ごく一部は高級食材として輸出されている。
日本の鉱業の中心を占めるのはイオウ、ヨウ素である。イオウは世界第5位(2001年(平成13年))320万トン、ヨウ素は世界第2位(2005年(平成17年))6500トンを採掘している。産出量では、天然ガス101千兆ジュールや石炭の302万トンが目立つ。少量ながら原油をも産出する(2001年(平成13年)時点で年間約37万キロリットル産出した)。
金属資源は亜鉛の4万3000トンを筆頭に、鉛、銅を産する。この3金属はいずれも非鉄金属として非常に重要である。しかし、いずれも国内消費量の4%、6.8%、0.02%しかまかなえていない。金(8.6トン)、銀(81トン)も採掘されているが、世界的にはシェア0.5%以下である。かつては両金属を大量に産出していた。
国内需要をまかなうだけの生産量がある地下資源は石灰岩(セメント原料)、珪石(水晶。ガラス・レンズ・光ファイバー・建築材料の原料)などごく少数である。
現在ではあまり資源としては利用されていないが、メタンハイドレートと呼ばれるものが日本近海に多数眠っていることがわかっている。これは採掘手法がまだ確立していないが、石油が将来的に枯渇したときのための、代替エネルギーとして注目を浴びているものである。
日本列島の地下資源は概して全体としての産出量は少ないものの、埋蔵されている鉱物の種類は非常に豊富で俗に「鉱物の博物館」[80]と呼ばれる。
日本の基幹産業である工業の技術水準は世界最高水準にあり、トヨタやホンダ、日産など世界有数のメーカーを擁している。
原油・鉄鉱石などの原料を輸入して自動車、電気製品、電子機器、電子部品、化学製品などの工業製品を輸出する加工貿易が特徴であり、技術水準は世界トップクラスにある。最近は韓国や台湾からの電子部品や、電子機器の半製品輸入も増大している。輸出品輸入品共に電子機器が最大である。
トヨタやホンダ、日産など世界有数の自動車、自動二輪メーカーを擁しており、新車販売は世界第3位、保有台数は世界第2位であるである(詳しくは日本車を参照)。
日本の基幹産業は工業であり、特に素材・土木・造船・金属加工・機械・電気・電子工業などの製造業は世界最高水準にある。一方で航空機・宇宙・医薬品・バイオ・ITなどの新産業においては必ずしも最高水準ではない。航空機技術は向上を続けており、HondaJetや三菱MRJなどが事業化されている。一方、製造業では中国や韓国・台湾など新興国の成長に押されており、日本の製造業の収益率は80年代をピークに下落を続けている。そのためナノテクノロジーや民生用ロボットなどに活路を見出そうとしているが、ともに開発途上の技術であり、後者は日本以外での需要が少ないなど必ずしも成功しているとは言いがたい。
日本の産業は発展の過程で間接金融による資金調達を広く用いたため、銀行の活動が経済に与える影響は大きい。銀行は、融資で土地資産を担保に取ることが多かったため、土地が経済に与える影響も大きい。しかしバブル景気崩壊後は、直接金融への転換が進められている。
金融業ではバブル時期の焦げ付き、いわゆる不良債権問題が長引いて1990年代初頭に金融不安を引き起こした。しかし政府主導で大合併が行われ、公的資金を注入してこの問題は強引に解決され、その後は超低金利政策の下、高収益を上げるようになった。2006年(平成18年)に日本銀行はゼロ金利を解除したが、未だ金利の水準は低く推移しており、個人消費の伸びが見られないなど経済回復が明確でないためにそれ以上の金利上げには至っていない(2007年(平成19年))。
2002年(平成14年)時点の主要輸出相手国は金額ベースで28.9%を占めるアメリカ合衆国、中華人民共和国 (9.6%)、大韓民国 (6.9%)、香港 (6.1%)、シンガポール (3.4%) である。アメリカ合衆国、東・東南アジアへの輸出で55%を占める。
輸入相手国は、アメリカ合衆国 (18.3%)、中華人民共和国 (17.4%)、大韓民国 (4.6%)、インドネシア (4.2%)、オーストラリア (4.2%)であり、以上で48.7%を占める。貿易収支は黒字である(2004年(平成16年)は約14兆円の黒字)。
また、継続的な経常黒字により世界最大の債権国となっており[82]、世界経済からの配当や利子の受け取りが次第に増大している。
日本は世界的に見てもあらゆる分野で高水準の科学技術を保有している。国際特許出願数は米国に次ぐ世界2位、特許収入も米国に次ぐ世界2位の黒字国である。
世界最高水準の技術を保有している。日本では普及率が低いがディーゼルエンジンの特許出願件数は世界1位である。バイオ燃料関連の研究や太陽光発電など新エネルギー関連の研究も盛んであるが普及面では諸外国に立ち遅れている。
MPU設計やソフトウェアに関して米国に劣るものの世界的には高水準の技術を保有している。一方で光ファイバーや結晶引上技術など素材関連の研究に厚みがあり、ハードディスク、フラッシュメモリや液晶ディスプレイの生産では韓国や台湾に押されているものの、その基礎技術は世界的に優位な立場にあり、生産国から特許収入が得られている。
世界でもトップレベルの技術を保有しており、米国と肩を並べている。特に複合材料を得意とし、日本の自動車・造船・防衛産業などの工業を支えている。
高水準の技術を保有している。磁気力や近接場マイクロ波、中性子の利用技術、複合計測技術等はレベルが高いものの、イオンやレーザー利用技術等は低水準である。
一部で世界トップレベルの技術を保有するが、全体でみれば米国、欧州全体に次ぐ3番手にある。幹細胞関連技術についても日本発の技術であるiPS細胞技術では世界を先行するが、幹細胞関連技術全体で見れば特許出願件数の半分以上が米国で、以下欧州連合、日本と続く。
第二次世界大戦敗戦後、日本の経済は焦土から立ち直り製造業を軸に高度経済成長を果たした。日本の経済の規模は、1968年(昭和43年)に国民総生産 (GNP) ベースで資本主義諸国中アメリカ合衆国についで第2位となった。しかし1974年(昭和49年)の石油危機を境に高度経済成長は終焉した。その後、度重なる円高不況により生産拠点が海外に流出する「空洞化」が深刻化した。自動車産業など、比較優位で競争力の高い輸出産業は独自の生産性向上施策でこの円高の波を乗り切り、現代日本を支える基幹産業となって世界でも最高水準の競争力を持つに至った。しかし、比較劣位の産業のいくつかは、競争力を喪失して衰退した。このため技術・知識集約産業への転換など、産業構造改革が必要と考えられている。近年、開発セクション(日本国内)と生産拠点の連携を密にしたり、技術流出を防ぎ競争力を保持する目的から、海外から国内に生産拠点を戻す動きも見られる。
1980年代後半の土地バブルとその崩壊による不況で、日本経済は空白の10年(失われた10年)とも呼ばれる経済成長率の低迷と金融危機などを経験した(趨勢としての実質経済成長は1990年代も続いている)。しかし2005年(平成17年)現在では株式取引量及び総額は、既にバブル期を越える量と金額の取引があり、非常に活発になってきている。さらに、設備投資も増加して緩やかな景気拡張期にある。
景気回復の一方で、格差問題が注目を集めている。日本は明治以降、旧華族(戦後廃止)以外の身分制度がなく戦後はGHQの占領政策により経済格差が縮小する傾向が続き「国民総中流」と呼ばれる意識が浸透していたが、近年は経済格差拡大に関心を寄せる人が多い。OECDの統計によれば、2005年(平成17年)度には日本の貧困率は15.3%で、OECD加盟国中、第2位となった。ただし、OECD加盟国30ヶ国中貧困率の統計をとっているのは17ヶ国に過ぎず、日本を除けば比較的貧困問題が深刻でない欧米とオセアニアが中心で、より貧困問題が深刻な旧共産圏や韓国・メキシコ・トルコなどは含まれていない。日本の貧困率が高くなった原因は、社会の高齢化による年金生活者の増加がまず挙げられる。次に賃金の低い非正規雇用が増加していること。最後に税制と社会支出における格差是正の程度がかつてより小さくなっている事が挙げられる。
また、1990年代における財政政策により日本の公的債務(国と地方の長期債務残高)は750兆円を超え、GDPに比較して債務の比率が高い国となった。日本政府の債務残高は一見大きく見えるが、公的年金制度や国民の資産形成の嗜好(貯蓄性向の高さやマイホーム嗜好、貯蓄型生命保険嗜好など)が影響し、金融資産を差引いた純債務は先進国の中では平均的なものである。
日本は明治以来、西欧型の民法典を導入し財産権を基礎とした資本主義を経済運営の基本方針としている。戦時体制の経験以降、物価統制や終戦直後の傾斜生産方式による生産、外貨準備にともなう割当制など旧通産省や旧大蔵省を中心とした護送船団型の経済運営が行われ、他の資本主義国家と比較して失業率が低い(2007年(平成19年)現在日本は3%台、他国は最高で5%台、10%台もある。)こともあり、「最も成功した社会主義国家」と言われていた時代があった。一方で人口に占める公務員比率は一貫して低く、経済に占める公的企業の事業規模も小さく、企業内福祉や家族内での相互扶助を重視した社会保障制度を構築することにより、諸外国に比べ小さな政府を実現している。近年では行政改革が叫ばれ、公務員数のさらなる削減・民営化が進んでいる。
国際交通においては、古くから北太平洋及び北東アジアの交通の要所として海運、航空において重要な位置を占めており、世界的に有数の規模の船会社や航空会社が存在し、世界各国との間を結んでいる。
国内交通においては、アジア諸国においてはもっとも早い時期から鉄道を導入した国の一つであり、私鉄による鉄道網が全国を網羅している。また、高度成長期以降はモータリゼーションが進み、道路網、高速自動車道路網が発達している。
日本航空が、1950年代以降日本のフラッグ・キャリアとして国内外にその路線を広げており、アフリカを除く全大陸へ就航している。現在も同社はアジアのみならず世界でも有数の規模を誇る航空会社として知られている。また、1980年代までは国内線のみを運行していた全日本空輸が現在はアジア圏への路線を中心に国際線も運行している。1990年代以降の規制緩和を受けて、スカイマークやスカイネットアジア航空などの新興航空会社が出現し、国内航空運賃の引き下げに一役を買った。しかし都市部、特に東京におけるインフラの劣悪さが、航空運賃の低下と路線網の充実の足かせとなっている。
明治維新以降、国の重要政策として鉄道敷設が推進された結果、現在では全ての都道府県に鉄道が通っており通勤通学旅行などに多用されている。新幹線は都市間を結ぶ高速鉄道であり、空路に勝るとも劣らない地位を築いている。新幹線は線路の規格が異なるため全国で開通していないが、整備が続けられている。都市圏では地下鉄網やモノレールがそれに加わる。さらに近年の環境保護志向により路面電車が見直されている。 1872年(明治5年)10月14日の新橋 - 横浜(現桜木町)間の開通を皮切りに明治時代以降に全国に鉄道網が急速に敷設され、国鉄やそれ以外の数多くの私鉄へと発展。日本の国力隆盛の牽引力となる。1964年(昭和39年)には新幹線が国鉄(現在のJR)によって導入された。1970年代までには私鉄、国鉄を含む多くの路線が電化され、世界に例を見ない規模で分刻み(実際の運転では秒単位)のスケジュールの運行を行っており、日本の鉄道はその規模、技術、運営ノウハウともに世界最高水準といわれる。2003年(平成15年)8月の沖縄都市モノレール線(ゆいレール)開通により、全ての都道府県に鉄道が走る事となった。2004年(平成16年)時点で、鉄道の総全長は23,577 kmである。
高度経済成長期以降に自動車産業を保護する観点から国内陸送の主力をトラックにすると決められたことなどもあって、全国的に道路整備や高速道路網の整備が行われた。しかし近年では都市部を中心とした渋滞の慢性化や高速道路使用料の高さ、駐車スペース確保の困難さや環境問題への対策として、鉄道や航空機などの公共輸送、船舶輸送などが見直されている。 2004年(平成16年)時点で、舗装された道路の全長は1,177,278 kmとなっている。
四方を海に囲まれた日本にとって、海運は欠かせないものであり、沿岸部に工業地帯や人口が集中している理由でもある。日本郵船や商船三井などの世界有数の規模を持つ船会社が、19世紀後半から世界各国との間に貨物船や客船を運行してきてた。現在も中東地域や東南アジアからの石油や天然ガスなどの資源が輸入され、ヨーロッパやアメリカ合衆国との電化製品や自動車などが輸出されていく。国内航路においても大小の船会社によって多数の貨客フェリーや高速船が運航されている。また、造船分野においてもその技術力の高さから世界有数の規模を保っている。
国土が南北に長く、また森林限界を越える高山帯や広い海洋、四季の変化によって、国土面積の広さに比べて、生息する動物と植物の種類は豊富である。
日本は四方が海で囲まれているため、外部から新しい生物が侵入してくる可能性が低い。それに加え、多くの離島があるため、その島独自の生態系が維持されてきた土地が多数ある。特に小笠原諸島や、南西諸島は古くから本土と比べ孤立した生態系を築いてきたため、その島固有の動植物が多数生息している。殊に、小笠原諸島においては「東洋のガラパゴス」と呼ばれるほど特殊な生態系を持つ。そのため、その島の名前がその動植物につけられたものも多数ある(例:小笠原諸島のオガサワラトンボ、オガサワラノスリ。南西諸島のうち、八重山列島の西表島に生息するイリオモテヤマネコなど)。
高度経済成長期以降の食卓の変化や海外の農産品の輸入問題などさまざまな要因により、近年農林水産業が大きく変化した。このため、田畑や人工林の放置、漁業資源の減少などの問題も発生している。
日本は1950〜60年代に四大公害病をはじめとした大規模な公害が発生した。そのため、日本政府は、1967年(昭和42年)の公害対策基本法制定をはじめとして、水質や大気汚染などの規正法を相次いで成立させた。これを受けて、日本企業はオイルショックのためにマイナス成長下にあった1973年(昭和48年)〜1976年(昭和51年)前後に集中して公害防止への投資を行い、70年代以降は大規模な公害の件数は急速に減少した。また、この投資は、オイルショック下の日本経済の下支えの役割を果たしたため「日本は公害対策と経済成長を両立させた」といわれている[83]。
しかし、ゴミ問題のために富士山の世界遺産登録を断念したことに象徴されるように、環境対策と管理において、日本は多くの課題を抱えている。生態系においても、明治時代以降外来種による生態系の変化が起こり、トキやニホンオオカミの絶滅に代表されるような生物多様性の低下が起こっている。また、ニホンザルやイノシシが市街地に出没するなど人間の生活への影響も出ている。
亜熱帯のものから亜寒帯のものまで植物の種類が豊富で、多様性に富む。国土のほとんどの地域で、一年の間に湿度の高い時期を経験するので、高湿度に適した植物が多く分布している。コケ植物やシダ植物なども豊富。また、法定ではなく慣習的に菊と桜が国花もしくはそれと同等の扱いを受ける。この他各自治体でも独自の木や花を制定している。
日本の国土の約3分の2が森林である。亜熱帯から亜寒帯にわたるどの地域でも年間雨量は十分にあり、森林が成立可能である。平地の植生は、南側約3分の2は常緑広葉樹林、いわゆる照葉樹林という型であり、それ以北は落葉広葉樹林、ブナ林を代表とする森林である。標高の高い地域ではさらに常緑針葉樹林、一部には落葉針葉樹林がある。南西諸島では熱帯要素が強くなり、多少ながらマングローブが発達する。
2002年(平成14年)現在、日本の森林面積は2,512万haであり、森林率は66%となっている。この数字は、1970年代以降、横ばい状況にあり、減少傾向にある世界各国の森林率から比べれば突出した数値となっている(参考:ブラジル57%、カナダ51%)。森林の内訳は、天然林が53%(1,335万ha)、人工林が41%(1,036万ha)、その他(標高などの条件により未生育の森林など)6%という比率となっている。このうち人工林は、第二次世界大戦後の拡大造林の影響を受けたことから、スギ林が多数(452万ha)を占めている。
人工林がここまで多い理由として、1950〜1970年代前半、空前の住宅建設ラッシュが発生し国内の木材需要が逼迫し、その後1970後半〜80年代にかけて木材輸入制限が緩和、海外からの輸入量が急増すると一転して木材価格は暴落した。その結果、日本の山には採算の取れない人工林の多くが取り残されることとなった。人工林の手入れを怠った場合には、生育ができない、土砂の流出、水源のかん養が十分に発揮されない、年輪がマチマチで節だらけの商品価値の無い立木になる、そして伸ばし放題の枝や葉の影によって周囲の木々の光合成の効率の悪化などの問題が発生する。また放棄されたスギ林では、春先に大量の花粉が発生し花粉症の原因の一つとなっている。
日本には100種強の哺乳類が生息し、そのうち固有種は3割を超え、7属が固有属である。日本の哺乳類相は、北海道と本州の間にあるブラキストン線、また南西諸島のうち、トカラ列島と奄美諸島の間にある渡瀬線で区切られており、これらを境に、異なる動物群が生息している。
大型哺乳類では、北海道のヒグマ、エゾシカ、本州のツキノワグマ、ニホンジカ、ニホンカモシカなどがいる。
固有種であるニホンザルのうち、下北半島に住む個体群は、世界で最も北方に棲息するサルである。ニホンオオカミ、エゾオオカミ、ニホンアシカ、および日本のラッコ個体群は絶滅。ニホンカワウソも絶滅の可能性が高い。日本犬や日本猫は、都道府県によって様々な品種がある。
四周を海に囲まれるため、水鳥の種類は豊富である。南北に長い弧状列島は、渡り鳥の中継地としても重要である。また、シベリアで繁殖する鳥の越冬地やさらに南に渡る鳥の渡りの中継地点として重要であり、東南アジア等で越冬した鳥が繁殖する地でもある。このように日本列島は渡り鳥が豊富に行き交う位置にある。近年日本国内の渡り鳥の中継拠点となる干潟の乱開発による減少や、日本で繁殖する鳥の越冬地である東南アジアの森林環境の破壊が、日本で見られる鳥類の存続の脅威となっている。
日本の固有種はメグロなどがある。国鳥はキジ。日本のトキの個体群は絶滅。現在佐渡市で人工的に繁殖されているトキは、中国の個体群から借り入れたものである。
人家の近くには、カラス、スズメ、ハト、ツバメ、ハクセキレイなどが生息し、古来日本文化の中で親しまれてきた。
爬虫類・両生類はいずれも亜熱帯に種類が多く、日本では南西諸島に半分以上の種が集中する。これは島ごとの種分化が進んでいるためでもある。本土内では島ごとの種分化はさほど見られない。例外はサンショウウオ類で、南西諸島には見られないが、本土の各地方での種分化が進んでおり、多くの種を産することで世界的にも知られている。また、現存する世界最大の両生類であるオオサンショウウオは日本を代表する両生類として世界的に知られている。
日本の近海では魚類は種類、数共に豊かで、三陸海岸沖から千島列島にかけては世界三大漁場の一つに数えられる。日本近海を暖流と寒流が流れ、これらの接点である潮境ではプランクトンが発生しやすいことや、周辺に広い大陸棚や多様で複雑な海岸を持つことなどが好条件となっている。河川は大陸に比べて規模が小さいため淡水魚の種は多くはない。古代湖である琵琶湖などには多彩な種が棲息するものの、アユ等の食用に供される種の人為的放流や外来魚の勢力拡大により、希少種の絶滅や淡水魚類相の激変が問題となっている。他方、雨量の多い気候のために河口域に汽水域が出来やすく、貝類も豊富である。
昆虫は亜熱帯のものから亜寒帯のものまで種類が豊富で、多様性に富む。国土に森林が多いため、数も多い。都市部でも多くの昆虫が見られる。雨が多く、湿地や水田が各地にあるため、特にトンボの種類が多い。また、カブトムシなど里山に暮らす昆虫も多く見られたが、暮らしの変化とともに少なくなった。江戸時代頃からスズムシやコオロギの鳴き声を楽しむために飼育が行われてきた。愛玩対象として昆虫を飼う文化は世界的にも珍しい。オオムラサキが国蝶。
日本人の起源は、いわゆる縄文人を基層に弥生時代前後に北東アジアから移住した人々が融合した。日本人の起源そのものについては北方ユーラシア大陸にルーツをもつ人々が中心となって形成されたとの説が有力だが、詳細については諸説あり、定かではない。自称としては「和人」、あるいは近代的民族意識の下では「大和民族」「日本民族」とも言う。古代からの天皇を頂点とする近畿地方の朝廷と、中世以降における天皇を支配の正統原理として後ろ盾とする武家政権との、二重構造で成立していた中央政権の支配下に入った地域の住民が、固有の日本民族とされる。南西諸島の人々は縄文時代から弥生時代にかけて九州から南下した人々が中心となっているとされ、本土の住民とルーツを同じくしているが、アイヌ民族の起源はいまだ明らかになっていない。
縄文晩期以降、ユーラシア大陸からの移住者が縄文時代からの土着の狩猟採集民と混血しながら倭人(和人)としての文化を形成していく。ヤマト王権の成立に伴い、和人としての文化的一体性が形成されていく。その後は蝦夷など朝廷の支配下に入るのが遅れた人々を同化しながら和人の文化圏は拡大を続け、平安時代までには本州・四国・九州の全域が和人の生活範囲となった。江戸時代には、薩摩藩による琉球への侵攻、松前藩のアイヌ支配の確立により、北海道・南西諸島を含む日本列島全域が和人の勢力圏に置かれる。ただし、渡島半島を除く北海道では、江戸時代当時の米が寒冷地に適さなかったこともあり、アイヌ等の狩猟民族の文化が明治時代まで保存されていた。現在、アイヌ語を第一母語とする日本人はいないが、アイヌ文化振興法が制定され郷土文化の保存と再興が図られている。ただし、北海道の狩猟民族はアイヌだけではなくウィルタ、オロッコ、ニヴフ(ギリヤーク)、ナナイなど多岐にわたる上、一口にアイヌ文化といっても地域差が大きかった。これは文字や統一国家を持たず、部族単位で分拠していたためである。
中世以降、北海道・千島列島・樺太南部(蝦夷地と総称する)に居住したアイヌ(ウタリ)及び、沖縄本島に成立し南西諸島の大半を支配下に置いた琉球王国については、それぞれ「北の日本」、「南の日本」とも称される。これらの地域に住む人々は、弥生時代以降、「中の日本(主要な3島及びその周辺島嶼を指す)」とはやや異なる歴史を歩んだ経緯がある。ただ、元来、鎖国基調にあった、中の日本に対し、琉球は南方で、アイヌは北方でそれぞれ大陸勢力との接触・交流を担っていたという構造が背景にあり、中の日本は限られた窓口を通じての大陸勢力との直接接触を除くと、琉球、アイヌを通じて間接的に大陸勢力と接触していた側面が色濃い。なおアイヌと共に樺太にいたウィルタ、ニヴフは、樺太南部へのソビエト侵攻と占領後、北海道や本州へ移住した。今でもロシアに対して樺太南部の返還を求める声も僅かながらある。また小笠原諸島には19世紀初頭ハワイから植民団が入植し、ヨーロッパ系アメリカ人やハワイ人による小規模なコロニーを形成したが、明治維新後日本領有が確定し、ヨーロッパ系、ハワイ系住民は順次日本国籍を取得し、日本人社会に溶け込んでいった。
現在総人口の約1.5%が外国人登録者である。韓国籍、朝鮮籍、中国籍、台湾籍、ブラジル国籍、フィリピン国籍などが多く、韓国・朝鮮籍を除けば増加傾向にある。韓国籍、朝鮮籍、及び台湾籍については、戦前の旧日本領の出身者及びその子孫が多く、中国残留孤児や家族の永住帰国も多い。さらに、韓国籍、朝鮮籍に関しては朝鮮戦争の戦火から逃れた難民も多い。また近年の外国籍増加の背景には、1990年(平成2年)の入管法改正でブラジルなどに移民した日本人移民及び子孫の、日本での就労が自由化された事が大きく、さらに結婚の国際化などもある。
1895年(明治28年)に台湾を、1910年(明治43年)に朝鮮半島を併合後、太平洋戦争敗戦まで日本国の一部として、台湾人、朝鮮人にも日本国籍を与えていたため、両地域からの出身者が多く、順次本土に移住してきた者も少ない。また大戦中に軍人、軍属として、または労働者として志願または徴用され日本国内に来た者もいる。大戦終結後、彼らは祖国へ引き上げる機会もあったが、各人の判断や事情によって日本国内に留まった。その後、サンフランシスコ平和条約締結によって、日本国籍を喪失したが、日本政府より特別永住権を付与されたため在住し続ける者も多い。現在では日本生まれの人間が多数派であり、帰化して日本国籍を取得する者が多い[84]。彼らのうち、在日朝鮮人は北朝鮮との外交上の関係から地域によっては微妙な立場に立たされてることもある。
学校教育で均質化された日本語が使用されている。固有のかな文字のほか漢字を用いる複雑な表記体系をもつが、義務教育の普及により識字率は極めて高い。外国から帰化した者など一部を除き、ほぼ全ての日本人が日本語を母語としている。同時に、日本語以外の言語は、日本語に単語として取り入れられた外来語を除いて、日常会話では殆ど使用されず、教育の分野でも常用しない。そのため、外国語を理解出来る者は多くない。
日本語が法律で公用語に定められているわけではなく、実質的な慣習に基づくものである(裁判所法74条では「裁判所では、日本語を用いる。」と定めている)。国会ではアイヌ語などの使用も認められている。ただし、憲法や法律は日本語で記述されたものが正となっている(なお、外国語を正文とする条約は、その日本における国内法的効力に注目すれば、「外国語で記述された日本法」ということになる。)。
日本語を母語とするとされる国民でも文語は共通のものを用いているものの、地域により方言と呼ばれる各種の口語日本語が存在し、文法体系は似通っているが音韻体系が大きく異なっていることが多い。そのため、離れた地域出身者相互、特に年配者間、または年配者と若年者間で、お互いに日本語を母語としているはずの国民同士であるはずなのに、口語による意思疎通が困難になることも少なくない。こうした地域間の口語の相違は、アイヌ語はもちろんの事、地域格差が大きいのである。これは日本だけではなくフランスなどの欧州諸国でも見られる現象であり、そもそも民族国家規模で均質化された国民言語の創設そのものが、世界史的に比較的歴史の浅いものであることによる。日本では明治政府による中央集権化が進められるまで、民衆は文語や能狂言といった古典芸能の言語を通じて全国的な言語の統一性を持ちつつも、各地方の領主の統治下で地方固有の口語と地方文化を育んだ。
明治維新による近代的な国民国家の創設に伴い言文一致の運動が起こり、口語により近い文語と国民的な共通口語の形成が朝野の双方から推し進められた。この新しい文語や口語は学校教育や報道、行政、軍隊などを通じて国民の間に広く浸透し、日本人としての国民的一体感の形成に大きく寄与した。
第二次世界大戦終戦時等一時期は、フランス語の国語化や国際語的地位にある英語の第二共通語化、また、漢字の廃止などを訴えるグループもあった。現在、義務教育である中学校で必修科目となっている外国語科では、英語が教えられているケースが圧倒的に多い。中学校以降の教育機関でも英語の教育を行う事がほとんどで、国民の多くが英語の学習を継続し、かつ英語習得を目指そうとするが、その期間・努力の長さの割りに英語力は高くないといわれる。その理由としては日本語と英語は言語的に系統が全くかけ離れており共通項が少ないこと、日本国内において英語の使用を強いられることが少ない事等があげられる。
日本は漢字文化圏に属しており使用を続けている。第二次世界大戦後、正字体(旧字体)から新字体に簡略化された。1950年代まではこれに反対意見も多く、旧字体が使用されることも多かったが、1960年代からは新字体の利用が定着している。同様に終戦直後、完全な表音式仮名遣いへ移行するまでのつなぎとして導入された現代仮名遣いも定着し、今日まで使用され続けている。
話者数は在日韓国・朝鮮人を中心に100万人程度。このうち母語話者数は(在日一世と朝鮮学校出身者)17万人と見積もられている。在日朝鮮人の言語状況参照。
ちなみに日本国内の非日本語話者比率と世界人口に対する日本語話者比率は、大体同じくらいである(ともに2%程度)。
現在の日本国民の大半は特定の宗教を信仰しているという自覚はない。歴史的には、「神道」と呼ばれるアニミズム的信仰と外来思想の仏教が広く信仰されてきた。神道と仏教は半ば融合した宗教組織の形をとり、神道がアニミズム的側面や婚礼儀式を、仏教が理論的側面や葬式を担当するなど、分業的共存をしていた。明治時代の国家神道形成と神仏分離令によって、神道と仏教は別個の宗教組織の形をとるようになった。カトリックやプロテスタントなどのキリスト教徒もいるが、洗礼を受けた正式な信徒・教会員は総人口の1%を超えることはなく、教会組織も社会に強い影響力を持たない。しかしクリスマスなどのいくつかの儀式・祭礼は本来の宗教とは関係なくしばしば商業的なイベントとして多くの国民に受け容れられ、文学者や思想家などに見られるキリスト教徒文化人の社会的な影響も、必ずしも小さいわけではない。イスラム教徒やユダヤ教徒は、在日外国人を除けば数えるほどわずかしか存在しない。全体から見れば多くはないが、仏教系や神道系、あるいはキリスト教系を標榜する教団を主体にさまざまな新興宗教に所属するものもおり、カルト的な教団が社会問題になることもある。また、公立学校では憲法の政教分離規定により宗教教育を受ける機会はなく、大学でも宗教学部を置いているところは少数派である。そのため、国民の多くは自分自身の持つ宗教心や身についた宗教伝統に関して自覚的でないことが多い。正月の初詣に限れば神道は他の宗教には比肩しえない動員数を持つが(2006年(平成18年)の正月三が日の神社参拝者数はのべ9000万人)、これも現在ではクリスマス等と同列のイベント的側面の強いものとなっており、これを厳密な意味での宗教行為と考える学者は少ない。また神道の重要な神事である祭りは日本全国で、その土地ならではの特色で様々な時期に開催されるが、祭の主催者と参加者は共におおむね特定の氏子団体やボランティアで完結している例が多く、多くの一般住民にとっては外から観覧して楽しむものであり、儀式としての当事者的な参加意識は希薄である。
日本の文化は、近隣地域の文化を取り入れつつ独自に発展してきた。人間の集団あるところに文化は存在する以上、島国である日本には縄文時代のころから何らかの独自の文化があったのは想像に難くないが、文字を持たなかったため、それらを正確に知る術は存在しない。南方からの文化の伝搬も想定されるが、少なくとも表面的には大きな影響を残さない。その後4世紀頃から9世紀頃まで、大陸の文化が渡来人により伝わった。日本も遣隋使・遣唐使や留学生を派遣して積極的に中国の文化を取り入れた。大陸との往来が減った10世紀頃からは、これらの輸入された東アジア文化が日本特有の文化へと発展する。その後北宋との貿易により、禅宗が紹介され、喫茶の習慣が禅宗寺院に定着する。14世紀から16世紀の間、特に東山文化において、猿楽(後の能)や茶の湯(後の茶道)、枯山水などの庭園や書院造などの建築といった、現在「日本的」と考えられている「侘び・寂び」の文化が生み出された。その後、16世紀半ばからヨーロッパ文化がもたらされ、日本の文化に刺激を与えた。しかし後のキリスト教禁教や鎖国のため、ヨーロッパ文化の後世への影響は、喫煙の習慣などを除くと、地域的なものにとどまった。 17世紀以降の江戸時代には、安定と鎖国による閉鎖された環境の中で、再び日本独自の文化が発展し、歌舞伎、浮世絵などの文化が大衆に広がった。
この間、北ではアイヌの文化が独自の様相を見せている。また、旧琉球王国領域は言語的には日本語に極めて近いことから、基本的共通性は認められるものの、時に交流を持ちつつもおおむね独自の道を歩み、琉球王国を形成する。これらの詳細についてはそれぞれの項を参照。この状況は明治維新によって区切りが付く。
明治維新後、日本は西洋式の独立国家としての体裁を整えた。国策の一部として伝統文化は抑圧され、欧米の文化が急速に取り入れられた(廃仏毀釈、文明開化)。都市部では様々なものの欧米化が進み、庶民の生活に大きな影響を与えた。その一方で、日常生活では伝統的な生活習慣が根強く残り、特に地方では依然として伝統的な文化が維持されていた。地方の伝統文化が解体されるのは、戦後の高度成長以後である。大正期には経済の好景気などを受けて、アメリカ合衆国の大衆文化を取り入れたスポーツ、映画などの、享楽的な文化が流行した。しかし、1920年代以降、昭和に入ると陸軍の政策により、第二次世界大戦の戦時下で欧米風の文化は厳しく統制されていった。
1945年(昭和20年)に政府がポツダム宣言を受諾すると、連合国軍最高司令官総司令部のアメリカ軍が主導して日本の民主主義の復活強化を進め、それとともに日本の文化もアメリカ流の生活・文化を目標とするようになる。占領した連合国将兵の生活様式及び民間情報教育局 (CIE) の視聴覚教育によるアメリカ合衆国の公報映画を間近にみることは、各地で文化的衝撃を与えた。それと同時に、日本古来の文化は軽視されるようになった。
高度経済成長期に至ると従来の生活習慣は大幅に変わっていき、伝統的な文化の多くが失われていった。一方で、日本人は自信をつけ、自国文化を再評価するようになる。例えば1970年(昭和45年)に行われた大阪万博の太陽の塔は、縄文芸術をモチーフにしたものとされている。また、大衆文化においてアニメやマンガといった新しく生み出された日本独自の表現方法も、日本から世界に向けて発信されている。これらの日本文化は摩擦を乗りこえ、若い世代を中心に広がっている。
おはじき、お手玉、双六、めんこ、折り紙、隠れん坊、かごめ歌、こま回し、羽根突き、凧揚げ、じゃんけん、けんけんぱ、綾取り、竹馬、影遊び、鞠
「国民の祝日に関する法律」(祝日法)一部改正により、2007年(平成19年)以降の4月29日は昭和の日に、5月4日はみどりの日に改められた。
同時にこれらの国民の祝日が日曜日と重なった場合、直後の「国民の祝日でない日」を休日とする事と改められた。5月3〜5日が日曜日と重なった場合、5月6日が振替休日となる。
春分の日、秋分の日については、黄道上で太陽が0度(春分点)、180度(秋分点)を通過する日であるので暦上日にちが前後する。
義務教育:6歳から15歳の9年間(学齢)。日本国籍がない人は対象外。実施場所は一般的に小学校6年と中学校3年。特別支援学校については、小学部6年と中学部3年が、中等教育学校(中高一貫校を一校化したもの)は、6年間のうち前期課程3年間が実施場所となる。
国技は相撲。長い歴史を持つ相撲は、現在に至るまで日本の国技として人々に親しまれきた。その他の伝統スポーツとしては柔道、剣道、空手などがある。
大衆スポーツとしては、19世紀後半にアメリカ合衆国から伝えられた野球が国民的スポーツとしての地位を得た。1934年には大日本東京野球倶楽部(東京巨人軍)が結成され、1936年には国内初のプロスポーツである日本職業野球連盟が発足した。以後、野球は国内最大のメジャースポーツとしての地位を確立した。プロスポーツでは長らくプロ野球の1強時代が続いたが、1993年のJリーグ発足後はサッカーもメジャースポーツとして認知されるようになり、代表戦の人気に限れば野球に引けをとらない。
朝日新聞、読売新聞、毎日新聞が三大紙である。日本経済新聞は経済紙であるため、一般紙に比べて株価欄を始めとした経済関連の記事の比重が高い。さらにこの四紙に産経新聞を加えた5紙が代表的な全国紙である。
テレビ放送では国営放送は存在せず、公共放送に準ずる日本放送協会 (NHK) および多数の民間放送により放送メディアが成り立っている。これらは主に電波法、放送法などにより律せられている。衛星放送は官民が協力し、複数の放送衛星を利用している。ケーブルテレビの普及度は、衛星放送の普及度に比べると低い。
日本は立地上、プレートや火山が点在しており、大昔から数多くの災害と付き合ってきた。その結果、自然災害を未然に防ぐために緊急警報放送を普及させている。特に地震の報道においては津波情報などの速報体制がしかれている。これらの災害時の放送は緊急度を時々見直すなどされている。
戦後の日本では憲法により表現の自由が保障されており、報道内容に関する政府の介入は建前上、無いことになっている。
が、実際は、テレビ放送については政府が発行する免許が必要であり、かつNHKの予算は国会の承認が必要である。一方で、新聞については、再販制度を継続するかどうかにおいて、大手新聞社は常に政府に生殺与奪を握られている状態であり、様々な形で事実上の介入が行われている。一方でテレビ・新聞の側においても、記者クラブ制度によって、大手放送局・出版社・新聞社などの一部の大マスコミのみが政府からの情報を独占出来、メリットを享受しているため、進んで政府批判を行うことは少ないとされる。
また、収入源の広告料収入を大企業に頼っている大手マスコミは、大企業が社会問題を起こしたとしても、批判する内容を報道することが少ないと言われることもある。
一方で、報道機関や出版界などは、無用な反発や軋轢を避けるため、放送禁止用語や出版禁止用語を定めて差別的あるいは下品な表現を禁止したり、報道内容を「自粛」したり「自主規制」したりすることが行われている。また、現在進行中の誘拐事件など、報道により人命に関わる場合などについては、自主規制または規制の対象になっている。
なお、近年発生した、報道機関を狙ったテロとしては赤報隊事件があるが、未だ解決には至っていない。国境無き記者団が作成する報道の自由度を示すランキングにおいて、日本は37位(2007年)である。これは先進国としては決して高い順位であるとはいえないが、国境なき記者団では、その根拠として前述の記者クラブの存在を挙げている。
現在は食料自給率は低いが、豊かな漁場と肥沃な農地に恵まれ、良質な食材が入手可能である。良質で豊富な飲料水にも恵まれている。伝統的な和食以外にも世界中の食文化を取り入れており、食文化の面では世界で最も豊かな地域の一つといえる。
日本人は主食と副食(おかず)の区分の意識が強く、両者を別々に容器に盛った上で同時に食べるのが一般的である。それによって各人のペースで主食と複数の副食の割合を調整する事ができるのである。もっとも代表的な主食は米を炊いた飯である(麦や雑穀を混ぜる場合がある)。またパンや麺類も大きな地位を占めている。芋はかつては救荒食として重要な地位にあったが、現在では主食の扱いを受けることはほとんどない。小麦・トウモロコシおよび豆類は大半を海外から輸入しており、これが食糧自給率を低くする大きな要因となっている。主要作物のうち米のみほぼ国内で自給している。
副食は主食と飲み物(汁物)を除いた料理の総称である。出汁(だし)と呼ばれる旨味を重視した味付け文化を持つ。
日本は四方を海に囲まれているため、漁業が特に盛んである。利用する海産物は実に多く、世界で最も漁業に関心が深い民族の一つといってよい。コンブなどの海藻も日本料理で重要な地位を占めている。さらに、タコやナマコ、ホヤなど世界的に珍しい物を含め多様な海産動物を食する。調理法も多種多様であり、寿司・刺身による生食など独自の文化を持っている。
平地の少ない日本は牧草地に恵まれず、また殺生を禁ずる仏教の影響から畜産が発達しなかった。しかし、海外の食文化流入に伴い、肉食は完全に一般化した。現在乳製品、鶏卵、鶏肉は比較的充実しているが牛肉、豚肉は輸入が過半を占めており[85]おり、国産肉はおもに産地ブランドなど高級品を志向している。飼料の大半は輸入に依存している。
野菜は伝統的に人糞を利用して栽培されてきたため生食の文化がなかったが、戦後は清潔な野菜が供給されるようになり、サラダなどの生食文化も一般化した。海外からの輸入も増えているが、農薬が残留した野菜が少なからず輸入されており、問題になりがちである。
嗜好品は伝統的に緑茶や和菓子が親しまれてきた。現在は世界中の茶飲料が飲まれるようになり、コーヒーやココアなど多種多様なソフトドリンクが日常的に飲まれ、洋菓子も広く親しまれている。菓子類や清涼飲料水は街角の自動販売機や商店(コンビニなど)で迅速かつ簡単に購入できる。また喫茶店が広く営業されている。
酒類では、伝統的に米を原料とする日本酒と、米や芋、麦などの多様な作物を原料とする焼酎が飲まれてきた。現在ではビールやワイン、ウイスキーなどが一般化しているほか世界中の酒類を購入できる。ただし酒税法の規定により、無許可で酒類を製造する事が禁止されており、自家消費のためにどぶろくなどを作ることさえ取り締まり対象となる。
加工食品や冷凍食品産業、外食産業が非常に発達している。外食産業は伝統的な和食(たとえば蕎麦、うどん、寿司などのファーストフード)以外に日本人の好みに変化した洋食や中華料理の食堂がよく見られた。1970年代以降は北米のファーストフードなどが普及したほか、アジアやヨーロッパなどの各種食文化が流入した。特に日本が強い経済力をもつようになった1980年代以降はグルメ志向が高まり、食文化の流入が加速した。また持ち帰り惣菜・弁当などの中食産業が発達している。
携帯食として伝統的に握り飯や箱に料理を詰めた弁当が利用されてきた。現在ではパンやビスケット類、インスタント食品など多種多様な食品が利用されている。
^ 熊谷公男 『大王から天皇へ 日本の歴史03』(講談社、2001)、吉田孝 『日本誕生』(岩波新書、1997)、など。
^ 『日本書紀』巻之第一 神代上 第四段「日本、此云耶麻騰。下皆效此」(日本、これヤマトと言う。下は皆これにならえ)
^ 一説によると、ラテン語圏ではH音が発音されないため「ニオン」と呼ばれてしまうからという理由であるという[要出典]。また、英語の語感が"nip on"に通じ甚だ印象が悪いことから「NIHON」にすべしとの意見もあるが、外国語の事情にあわせて自称を変更することには賛否両論がある。なお「NIHON」と用いる団体は例として日本ビデオ倫理協会や日本ファルコム、日本ミライズなどがある。
^ ベトナムはフランスの植民地になるまで漢字を使用していた。その時代の名残である。ベトナム語大辞典などで実際の発音を確認できる。
^ 那珂通世は、『緯書』の鄭玄注に、1260年に一度(干支一運の60年(「1元」)×21元=「1蔀」)の辛酉年には大革命が起こるとあり、これをもって推古天皇9年(601年)の辛酉年から1260年前で当たる紀元前660年に神武天皇が即位したとされたとする説を唱えた。なお、神武天皇に殺された長髄彦の兄安日彦が津軽に亡命したことをもって日本の建国としている古文書・古文献(『中尊寺文書』、『平泉雑記』など)が東北地方に伝わっている。
^ ただし一部の現行法上においては現在も効力を有しており、法律文書などには記載されている(例:明治31年勅令第90号・閏年ニ関スル件)。
^ 法務省. "犯罪白書>平成9年版の犯罪白書>第2編 憲法施行50年の犯罪者処遇>第4章 裁判>第2節 終局裁判>1 全事件裁判確定人員>II-4表 全事件裁判確定人員". 2008年8月26日 閲覧。
^ 法務省. "犯罪白書>昭和35年版の犯罪白書>第2編 犯罪者の確定>第1章 犯罪の捜査、検察および裁判>第5節 終局裁判>1 死刑>II-37表 罪名別の死刑確定人員等". 2008年8月26日 閲覧。
^ 警察庁. "統計>平成19年の犯罪情勢>第4 刑法犯の現況>1 重要犯罪>(1) 重要犯罪の認知・検挙状況の推移>図表1-1 重要犯罪の認知・検挙状況の推移(PDFの64ページ、文書の55ページ)". 2008年8月26日 閲覧。
^ 警察庁. "統計>平成12年の犯罪>第1 刑法犯>総括>3 年次別・府県別・罪種別認知・検挙件数及び検挙人員>表F-26 逮捕監禁(PDFの54ページ、文書の49ページ)". 2008年8月26日 閲覧。
^ 法務省. "犯罪白書>平成19年版の犯罪白書>目次>資料編>資料1-2 刑法犯の主要罪名別認知件数・検挙件数・検挙人員". 2008年8月26日 閲覧。
^ 法務省. "犯罪白書>平成13の犯罪白書>目次>資料編>資料1-2 刑法犯の主要罪名別認知件数・検挙件数・検挙人員". 2008年8月26日 閲覧。
^ 法務省. "犯罪白書>平成9年版の犯罪白書>目次>第3編 まとめ>資料>資料1-1 刑法犯の認知件数・検挙件数・検挙人員(昭和21年〜平成8年)". 2008年8月26日 閲覧。
^ 法務省. "犯罪白書>平成元年版の犯罪白書>目次>付表>第1表 刑法犯の認知件数・検挙件数・検挙人員(昭和元年〜昭和63年)". 2008年8月26日 閲覧。
^ イギリスの国際戦略研究所のミリタリーバランス、スウェーデンのストックホルム国際平和研究所、アメリカのCIA World Factbookなどの統計
^ シーファー米駐日大使、防衛費の増額を期待(産経新聞2008年(平成20年)5月20日配信)JapanToday版
^ 防衛省. "法令、予算及び決算>防衛予算関連文書>我が国の防衛と予算-平成20年度予算の概要". 2008年6月10日 閲覧。
^ 財務省. "税制ホームページ>各種税金の資料>国際比較に関する資料". 2008年5月4日 閲覧。
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谷岡一郎、仁田道夫、岩井紀子『日本人の意識と行動』東京大学出版会 ISBN 978-4130561013
日本国民(主権者) - 憲法 - 天皇(一覧) - 選挙 - 国会 - 政党 - 裁判所 - 内閣 - 内閣総理大臣(一覧) - 閣僚 - 行政機関 - 国際関係 - 軍事 - 自衛隊
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「その他」は国家の承認を得る国が少ない、または無い国、あるいは独立主張をしている国。国際連合非加盟。事実上独立した地域一覧も参照。
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