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ジャパネットたかたcm ソング トニー

ジャパネットたかた トニーとは?

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ジャパネットたかた cm ソング トニー谷 - Wikipediaとは?

トニー 谷(とにー たに、1917年10月14日 - 1987年7月16日)は東京出身のヴォードヴィリアン。戦後日本の特殊状況を鋭く批評するキャラクターを構築した、キザでイヤミでバタ臭くてアクの強いゲテモノ芸人。リズムに乗りソロバンを楽器のようにかき鳴らす珍芸が売りで、妙な英単語を混ぜたしゃべりは「トニングリッシュ」と称された。短めのオールバックにちょび髭、吊りあがったフォックスめがね(ロイド眼鏡)がトレードマーク。芸風・容姿・芸名も含めて「日系二世」というギミックで売ったが、以下の通り実際には純日本人であった。長い間東宝専属。舞台・映画(100本以上の出演)・テレビ・レコードのすべてで活躍。
本名は大谷 正太郎(おおたに しょうたろう)。しかし芸能界時代は本名すら偽名にしており、「谷 正」という名を本名として使っていた(自宅表札の表記)。
家庭事情は複雑で、暗い幼少期を送っている。後年のギャグ「家庭の事情」の裏側には、下記のような重い歴史が隠されている。 東京市京橋区銀座に生まれ、東京市日本橋区小伝馬町に育つ。実の母は長唄の師匠。しかし妊娠中に実父は死亡し、血縁上の伯父を戸籍上の父として届け出た。戸籍上の父は電気器具商。愛情のない父に虐待されて育ち、ひどく苦しんだという。 子供のころは下町で有名なソロバン塾"大堀塾"でソロバンを学んでいた。小学校時代から成績優秀で、地元の名門である東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)に入学。英語と図画が得意だったものの、学問よりも家業を優先すべしとの父の命令で1933年に中退し、神田の電機学校(現東京電機大学)に通わされた。1934年に実母が病死、ついに実の父母ともに失った。戸籍上の父は再婚、父と継母にとってトニーは他人であり、トニーへの虐待がますます深刻になった。
そのため、家を出て自活を開始。1935年、日本橋小舟町の薬屋に就職。1938年、召集令状が来て近衛歩兵一連隊に入隊。1940年に除隊して第一ホテル東京(新橋)に就職。ホテルの開業記念日には率先して演芸会の進行役を務め、時には自ら出演して人気者となった。1942年に初めて結婚したが、1ヵ月後に再度出征。最初の妻は1945年3月10日の東京大空襲で行方不明になっている。
終戦まで一兵卒として南京や上海を転戦したと伝えられているが、現地で除隊して上海やシンガポール、マニラ、香港でバンドマンやナイトクラブの経営者をしていたという言い伝えもあり、この時期のトニーの行動は詳らかにされていない。
捕虜収容所生活を経て1945年12月に復員。1946年11月、事務員としてアーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場。終戦後GHQに接収されていた)に就職。主に大道具の仕事をこなし、やがて伊藤道郎の元で演出助手として「ミカド」の上演にかかわる。2年後、日本に進駐軍のアメリカ赤十字クラブが開設され、ここに引き抜かれて進駐軍相手の慰問芸能団編成の斡旋に関わり、有名芸能人とのコネを築いた。パン猪狩(ボードビリアンで日本の女子プロレス創設者。ショパン猪狩の兄)とは兄弟分の仲だったという。
1948年3月、赤十字クラブで知り合った女性と再婚。同年6月、東宝渉外部に転職し、日劇ダンシングチームなど出演者の起用を行っていた。「トニー」という名はこの時外人出演者によってつけられたあだ名である(姓の「大谷」を略した。タニー→トニー)。
1950年、日米野球のため米プロ野球サンフランシスコ・シールズ軍が来日した。歓迎会の司会は松井翠声が務めるはずであったが出られず、トニーが司会の代役を務め、電撃的な芸人デビューを果たした。以後、「さいざんす」「おこんばんわ」「レイディースエンジェントルメン、アンドおとっつぁんおっかさん」など独特の喋りで爆発的な人気を博す。世間がジャズブームの波にのると、トニーはジャズコンサートの司会者として引っぱりだこになり、芸能界の寵児と呼ばれた。1951年には「帝劇ミュージカルズ」第1回公演「モルガンお雪」で榎本健一・古川ロッパや宝塚在籍時の越路吹雪と共演。東宝に芸人として専属となり、舞台は日劇ミュージックホール、映画は東宝映画・宝塚映画中心に出演(ということは三木のり平、森繁久彌、柳家金語楼らと共演が多い)。出演映画は1953年には20本に上り、総数で100本を超える。
米国野球チームの歓迎会から世に出た男は、意図的にアメリカ人を、それを日系二世を模倣した。カタコトのトニー谷流英語(トニングリッシュ)がそれである。連合国軍に負け米軍に占領された日本人にとって、それは憎悪の対象でしかなかった。実際にはトニーの異端ハチャメチャ芸は確かに人気を得たが、当時の人にとっては尊敬に値しない単なる風俗現象としてとらえられた。一言で言うと芸もないのに急に裕福になった成り上がりであった。大衆はトニーに強い反感を持った。
トニーは芸人として軌道に乗っていた一方、共演者・客・視聴者・世間のすべてをバカにした態度をとっていた。これ自体も敗戦後の大混乱社会を象徴した光景であり、典型的なアプレゲール芸人といえる。言い換えると、存在が反社会的だったのである。小林信彦の『日本の喜劇人』では、ある芸人がトニーを評した言葉を紹介している。曰く「天皇陛下の前に出られない芸人」(注:芸人は、共産党等と関わりがなければ、叙勲、園遊会、余興(天皇の前で芸を披露する)など、天皇と顔を合わせる機会が何かとあるものなのだ)。にもかかわらず上層階級の婦人が使う「ざんす言葉」(上品な言葉遣いとされる)をあえて使っていた。後年、赤塚不二夫はマンガ「おそ松くん」にトニーそっくりのキャラクターを登場させた。赤塚はその人物を迷わず「イヤミ」と名づけた。トニー谷のイメージはこの一語に尽きる。
女性と舞台で共演すると、必ずいやらしい視線を向け、実際に共演者の胸や陰部を触り、いやらしい一言を浴びせた(セクハラ)。仕事の多くはジャズコンサートの司会であるが、司会者であるトニー自身が客前の前説でコンサートの主役であるジャズシンガーを舞台でこき下ろしていた(例:江利チエミ・雪村いずみのコンサートで、「ほーんと、どこがいいざんしょね? あんな下痢チエミとか雪村ねずみなんて!!」)。小馬鹿にする対象は占アメリカ人にも及び、ボードビルを演じる時、客席のアメリカ人に日本語で暴言を浴びせて日本人客をバカ受けさせ、事情を知らない当の米人客をもウケさせるということをやっていた。
この芸風がトニーには災いした。民放の放送がスタートし、芸人は放送に主戦場を移さなければならなかったが、全てのスポンサーがトニーを忌避した。結果として、舞台・映画での人気を放送全盛時代にそのまま生かすことができなかった。そして、後述する子息誘拐事件の直接の原因ともなったのである。
人気絶頂期のトニーは傲慢そのもので柳家金語楼や古川ロッパ等先輩芸人への敬意に欠け、喜劇人仲間からも反感を持たれていた。ソロバンを使った有名な芸も本来は坊屋三郎のアイデアで、坊屋は芸を盗まれたことに激怒していたという。
女性芸能人に対しては舞台裏でもセクハラを仕掛け、日劇の楽屋に乱入してはヌードダンサーたちに抱きつき、触りまくった。また、テレビ朝日の公録でも、同じ番組に出る女性漫才師の楽屋に乱入しては「おい!おまんちょ見せろ!」と大声で怒鳴った。この時のトニーは酒など入っておらず、素面であった。(山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』) このことから女性芸能人たちはトニーを心底嫌い、共演を拒否した(活動の場が徐々に減り、トニーの人気が失速する一因ともなった)。
放送局のエレベーターで一般人(女学生)と乗り合わせたトニーは、その一般人にも暴言を吐いた。そのことがあとで新聞の投書欄で明らかにされ、トニーは世間から指弾された。その一般人は安藤鶴夫の娘であったという説がある(詳細不明)。
人気絶頂期にあった1955年7月15日、6歳になる長男が営利目的で誘拐され、世間は大騒ぎになった。当時は進行中の誘拐事件であってもマスコミは報道を自粛せず、トニーは芸人としてのギミックを一切かなぐり捨て、悲しみに暮れる一人の中年の父親の姿を報道陣の前に見せ、カメラの前で号泣して息子の返還を犯人に懇願し呼びかけた(トニーの髪型はカツラであったことがこのとき明らかになった)。
しかし当時、芸人仲間の間で「確定的な事実」として語られていたのは、「これは事件などでなく、話題作りのためにトニー自身が引き起こした狂言だ」ということであった。多くの芸人が嫌われ者のトニーを信じず、冷ややかな目で見ていた。(これは狂言などではなく、実際に起こった誘拐事件だった)
犯人は7月21日に逮捕され、長男は無事解放された。東京喜劇人協会の会長だった榎本健一はトニーの自宅に行ってトニーを激励し続け、トニー一家とともに解放を喜んだ。
犯人は犯行の動機を問われ、「トニー谷の、人を小バカにした芸風に腹が立った」と語った。つまり、世間のトニーへの反感(本人の悪役キャラクターに由来する)が事件の原因となったのである。その後、野次馬が多数トニーの自宅に詰めかけたほか、大量の名無しによる「いたずら電話」が頻繁にかけられた(トニーは犯人からの電話を待ちわびていたのにもかかわらず、である)。憔悴しきったトニーはすっかり参り、しばらく寝たきりになってしまった。
トニーは被害者であったもかかわらず、マスメディアによって出自・前歴など秘密にしていた部分の多くを徹底して暴かれ、激しいメディア不信に陥った。事件の全容が明らかになってからも(なったからこそ)、「誘拐の真因はトニーが世間から嫌われることをやっていたからだ」という論調で、トニーは大宅壮一・花森安治などによって非難された。 ただし、前掲のように東京喜劇人協会は会長の榎本健一が自らトニーを激励したほか、関西喜劇人協会会長の伴淳三郎は、私的感情は別にして、世間からトニーへのバッシングがなされた時はその才能を惜しみ、逆にトニーを庇う発言をした。
この事件は、トニーをもはや「悪役」として存在できなくさせ、虚像をすべて剥ぎ取り、二世でも何でもない、単なる日本人の中年男であることを強くイメージづけた。この事件を境にトニーの人気は急に凋落した。折しもラジオ中心の時代からテレビの時代への過渡期でもあり、仕事は激減し、東宝との専属契約も打ち切られた。
その後、新日本放送のラジオ番組だった「ニッケ アベック歌合戦」を、1966年によみうりテレビがテレビ化して日本テレビ系全国ネットで放映開始した。この番組の司会が好評を博し、見事に第一線へのカムバックを果たした。出場者がリズムに乗って舞台に出、司会のトニーが「♪あなたのお名前なんてえの」と出場者に聞き、出場者はリズムに乗って答える、というのをフォーマットとしていた。トニーはソロバンでなく、拍子木を両手に持ってリズムを刻んでいた。
林家三平 (初代)の「踊って歌って大合戦」、ドリフターズの「味の素ホイホイミュージックスクール」、「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」、「牧伸二の勝ち抜きしりとり歌合戦」などと並ぶ人気番組となり、一種の社会現象となった。これらはいずれも視聴者参加番組で、かつ全てが日本テレビ系ネットであった。その一方、全てがPTAにより「低俗番組」と指弾された。大衆のある種の狂気を組織化し、強烈なエネルギーに変えるという仕事であり、日本人の米国への歪んだ意識をうまく笑いに変えた自己の全盛期と並んで、いかにもトニーらしい仕事といえるだろう(反対に、晩年のトニーには大衆の狂気が投影されなくなったため、目立った活躍ができなかった。)
後にこの番組は「スターと飛び出せ歌合戦」(〜1970年6月)となった。また、この番組を大阪の放送局が制作したこともあったためか、この時期たびたび道頓堀角座の舞台に漫談家として登場していた。
その後、ハワイで休養した後、1971年10月7日からよみうりテレビ製作の日本テレビ系で「トニーの外人歌合戦」で司会を始めたものの視聴率が伸びず、わずか3ヶ月で降板。
「マンネリ化した自分に嫌気がさした。ボードビルを考え直したい」と言い残して離日し、ハワイに土地を購入。この後5年間をハワイで過ごした。
帰国後、再び東京に居を構えた。日本から離れたことですっかり「過去の人」となり、容姿も変わった(細身の体はふっくらし、白髪を隠さないようになった。時折オールバックでないことがあり、眼鏡も異なる)。この時点で生活の心配がなくなっていたトニーは晩年、「懐かしの芸人」として、限られた数の仕事をこなしていた。(5年間がほんとうに本人の言通り「ボードビルを考え直す」ためのものであったなら、本人にとってあまりに不本意な晩年であったといえよう)
1977年、日劇ミュージックホールで舞台に復帰、さらにはNHKの『お笑いオンステージ』(「てんぷく笑劇場」コーナー)に出演。 1980年から始まる長いお笑いブーム(漫才ブーム)は若者がそのターゲットであり、60歳を過ぎたトニーにはお呼びが全くかからなかった。そして、ビッグバンドを従えて丸の内的価値観を振りまくモダンな芸風が、当時では全く時代遅れとなっていた。晩年のトニーは、他人に毒を全く振りまかなくなったが、それも時代に全く逆行していた。
1981年2月15日、トニーのホームグラウンドであった日劇が閉館。「サヨナラ公演」に出演し、最期の幕が下りる時、舞台の床にキスをした。
1982年1月30日、日本テレビ『今夜は最高』に出演、「米軍相手のショウでやっていたという」ハナモゲラ語モドキの言葉を発し、タモリと意気投合した。ちなみに、トニーの再評価をうながした小林信彦の『日本の喜劇人』では、初期のタモリは「トニー谷の系譜を告ぐ芸人」と位置づけられており、お笑い界の新旧交代劇とでもいうべき対面であった。
その数年後、渋谷駅で偶然に出くわした永六輔に声をかけたが、トニーが長年つけていたカツラがなかったため、永はトニーとわからなかったという。永はトニーの再度の「復活」に手を貸し、1986年6月25日には渋谷ジァンジァンにて「六輔七転八倒九百円十時」に出演。さらにはみのもんた司会のテレビ東京「爆笑おもしろ寄席」(生放送!おもしろ寄席の前身)にも出演、浅草演芸ホールの高座でソロバン芸を演じ、生中継された。これが最後のテレビ出演であった(東宝名人会以外の東京の寄席への数少ない出演でもある) 最後の舞台となったのは同年12月26日に渋谷ジァンジァンにて開催された「トニー谷ショー」である。
1987年7月16日午前0時14分、都内の病院にて肝臓癌のため死去(享年69歳)。 長男の誘拐事件以来マスコミ嫌いを貫き通し、特に「新聞記者の取材おことわり」の姿勢は終生変わらなかった。「マスコミのさらし者にはなりたくない」という故人の遺志をくんで訃報も身内や友人だけに伝えられ、葬儀も密葬という形で済ませた。
おりしも世間では石原裕次郎が死去し大騒ぎになっている最中で、病名も裕次郎と同じ肝臓ガンという事で引き合いに出される事も多かった。 なお、トニーの遺品であるソロバンは永六輔により引きとられ、現在「そろばん博物館」に展示されているという。
トニーを何回か自分の番組に起用した山下武は『大正テレビ寄席の芸人たち』で、トニーには以下の長所があったと指摘している。一つは、蓄財の癖。ハワイ移住などハッピーリタイアメントを可能にした最大の要因である。トニーの唯一の趣味は「預金通帳を読書すること」であった。二つ目は、時間をきちんと守ること(山下も指摘する通り、この点はアメリカ流なのが可笑しい)。いずれも、他の日本の芸人にはあり得ないトニー独自の長所である。
長男を誘拐した犯人は営利目的であったため、人質の長男を丁重に扱った。後日、トニーは犯人の家族に対し、現金や衣類などを送った。息子を丁重に扱ったお礼であった。この話は、トニーの生前は一切明かされなかった。
冒頭に述べたように、トニーのキャラクターそのものが戦後日本の批評である。大宅壮一は「植民地ニッポンの縮図」と評し、トニー自身は(戦後)日本を指して「パチンコ・カントリー」と言っている。小林信彦がこの見解に深く同意している。
小林信彦の「日本の喜劇人」にてトニーの楽曲の魅力を知った大滝詠一は、トニーの死後すぐに、自己のプロデュース・選曲によって、代表曲を集めたLP「ジス・イズ・ミスター・トニー谷」を発売した(「さいざんす・マンボ」「チャンバラ・マンボ」「サンタクロース・アイアム・橇(ソーリ)」「あなたのおなまえ何ァんてェの」など)。このLPは話題になり、プロモーションビデオの出来の良さも相まって、バブル時代に一躍「トニー谷ブーム」が生まれた。後にCD化もされている。
杉浦茂「猿飛佐助」- 佐助が変装してトニー谷になる。杉浦の漫画には、他にもトニー谷がよくネタに使われている。
アニメ「ケロロ軍曹」(キャラ「モアちゃん」が「レディース・アンド・ジェントルメン、おとっつあん・アンド・おっかさん」の名せりふを発した)
ロカビリー・ミュージカル「エルヴィスを夢見て」(2004年) - 鈴木一彰作、演出。トニー谷や石原裕次郎らしき人物が登場する。
カテゴリ: 日本のタレント | コメディアン | 日本の俳優 | 日本の歌手 | 東京都中央区出身の人物 | 1917年生 | 1987年没
[ ジャパネットたかたcm ソング の トニー参考サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E8%B0%B7

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