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ジャパネットたかた 織田とは?

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ジャパネットたかた cm ソング 織田信長 - Wikipediaとは?

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織田 信長(おだ のぶなが)は、日本の近世の最初期にあたる戦国時代から安土桃山時代にかけて、世に多大な影響を残した武将であり、大名(戦国大名)である。
実権を伴う統一者のいない政治的混沌を収集に向かわせた時代の中心人物であるが、その事業は、大方向を示したところで重臣の一人・明智光秀の裏切りに遭い、自刃に追い込まれたことによって頓挫(とんざ)した。ただし、政権の実質的後継者となった羽柴秀吉が、信長の握っていた時代的意義も引き継ぎ、先に進めることとなったことから、豊臣秀吉が継ぎ、徳川家康が完成させる日本近世の形成事業の、創始と言うべき位置づけにあった政治家である。
古渡城主・織田信秀の次男または三男として生まれる。異母兄が2人いるとする説がある[1]。信長が嫡男として育てられたようで、幼児のときに那古屋城主となっている。
天文20年(1551年)、急死した父の後を受けて家督を継ぐも、同母弟・織田信勝(信行)と家督争いが発生し、これに勝利する。その後、敵対勢力を次々と下していき、尾張を統一した。
永禄3年(1560年)、今川義元を桶狭間の戦いで破り、永禄10年(1567年)には美濃の斎藤氏を滅ぼした。その翌年には足利義昭を奉じて上洛を果たし、義昭を将軍位につけるも次第に関係が悪化して、元亀4年(1573年)これを追放した。武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺などから成る信長包囲網が結成されるが、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破り、元亀2年(1571年)には比叡山延暦寺を焼き討ちする。天正3年(1575年)に長篠の戦いで武田勝頼に大勝。以後、天下布武を推し進め、楽市楽座、検地などの政策を採用する(織田政権)。
既存の権威や勢力(朝廷・仏教など)を武力で排除し、出自に囚われない大胆な人材登用や伝統に縛られない新機軸の方針・政策を断行、応仁の乱以後続いた戦国時代を終結へと導いた。天下統一を目前とした天正10年(1582年)6月2日、家臣・明智光秀の謀反により京都・本能寺において自害した(本能寺の変)。
天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の次男[2]として、勝幡城(那古野城説もある)で生まれた。幼名は吉法師。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張守護斯波氏の被官、尾張下四郡守護代に補任された織田大和守家即ち清洲織田家の分家にして同家重臣たる清洲三奉行・古渡城主の家柄であった。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇矯な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称された。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くからのものであった。また、今川方へ人質として護送されていたが、三河の戸田康光が寝返ったため、織田方に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期をともに過ごし、のちに両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、織田上総介(織田信長)と称する。天文17年(1548年)、父の信秀と敵対していた美濃の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・帰蝶と信長とは政略結婚した。天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。
天文20年(1551年)、父・信秀が没したため、家督を継ぐが、その葬儀において祭壇に抹香を投げつけた[3]。天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。これは、奇行が目立つ信長を諌めるための諫死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためとも言われる。信長は嘆き悲しみ、沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。
当時、尾張は守護大名の斯波氏が衰え、尾張下4郡の守護代であった「織田大和守家」当主にして清洲城主織田信友が実権を掌握していた。しかし、信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その秀でた智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大していた。信秀の死後、信長が後を継ぐと、信友は信長の弟・織田信勝(信行)の家督相続を支持し、信長と敵対。信長謀殺計画を企てた。しかし、信友により権威維持の傀儡にされた尾張守護・斯波義統が、その計画を事前に信長に密告した。これに激怒し信友は、義統の嫡男・斯波義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。
このため、義銀が信長を頼って落ち延びてくると、信長は信友を義統を殺した謀反人であるとして、叔父・織田信光(守山城主)と協力して信友を殺害する。こうして尾張下4郡の守護代「織田大和守家」は滅び、那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張守護所を手中に収め、織田家の庶家であった信長が、名実ともに織田家の頭領となった。叔父の信光も死亡しているが、誰の手によるものかどうかは不明である。
弘治2年(1556年)4月、岳父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて死去。信長も道三へ援軍を出したが、間に合わなかったといわれている。
こうしたなか、信長の当主としての器量を疑問視した織田家重臣の林秀貞、林美作守、柴田勝家らは、信長を廃し、聡明で知られた信長の同母弟・信勝(信行)を擁立しようとした。これに対して信長には森可成、佐久間盛重、佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。
道三の死去を好機と見た信勝派は同年8月24日、挙兵して信長と戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、信長は末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。しかし、弘治3年(1557年)、信勝は再び謀反を企てる。このとき、稲生の戦いののちより信長方に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は、病い(仮病)と称して信勝を清洲城に誘い出し、殺害した[4]。
さらに信長は、同族の犬山城主織田信清と協力し、旧主・「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡の守護代・「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)、これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が、斯波一族の石橋氏と、同じ足利一門にあたる吉良氏と通じて信長の追討を画策していることが発覚すると、信長は義銀を追放した。
尾張統一を果たした翌年・永禄3年(1560年)5月、駿河の戦国大名・今川義元が尾張へ侵攻。駿河のほか、遠江・三河を支配する義元の軍勢は2万とも4万とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したが、総兵力は5,000人。今川軍は三河の松平元康(のちの徳川家康)率いる三河兵を先鋒にして、織田方の城砦を次々と陥落させていった。
織田家の危機に際して信長は静寂を保ち、深夜、幸若舞『敦盛』を舞った後、装具を身に付け出陣し、まず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で約4,000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った。永禄3年(1560年)5月19日に行われたこの合戦を桶狭間の戦いと言う。総大将の討死を知った今川軍は、本国駿河に潰走していった。
桶狭間の戦いののち、今川氏はその勢力を衰退させる。このため、今川氏の支配から三河国の徳川家康(この頃、松平元康より改名)が独立して戦国大名となる。当時、信長は美濃攻略のために斎藤氏と交戦しており、家康も甲斐の武田信玄や駿河の今川氏真(義元の嫡男)らに警戒する必要があったため、利害関係が一致していた。そのため両者は永禄5年(1562年)、清洲同盟(織徳同盟)を結んで背後を固めた。
斎藤道三亡き後、信長と美濃斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤家は家臣団内部で分裂が始まる。対斎藤戦で優位に立った信長は、永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・市を輿入れさせた。
永禄9年(1566年)には美濃の多くの諸城を戦いと調略によって手に入れ、さらに西美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家直元、安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳であった。このとき、井ノ口を岐阜と改称している[5]。また、この頃から『天下布武』の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。
一方で信長は永禄8年(1565年)より伊勢へ進出し、北畠具教など当地の諸氏とも戦っている。ここで活躍を見せた滝川一益は採り立てられ、以降、信長の重臣の一人となった。
このころ中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者・三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀が、室町幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた第13代将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。
久秀らはさらに義輝の弟・足利義昭の暗殺も謀ったが、義昭は細川藤孝、和田惟政ら幕臣の支援を受けて京都から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾する一方で、美濃国と国境を接する甲斐の戦国大名・武田信玄に対しては、信玄の四男・武田勝頼に養女(遠山夫人)を娶せることで同盟を結んだが、遠山夫人は武田信勝を出産した直後に早世したため、嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻関係を模索し、友好関係を保つ姿勢をとるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。
そして9月、信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の戦国大名、六角氏嫡流の後見役であった六角定頼系の六角義賢・六角義治父子は織田軍の猛攻を受けて観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)と伊賀に逃亡して定頼系六角氏は滅亡し、以降はゲリラ戦を展開した。このとき、六角氏嫡流の六角義秀・義郷は信長に庇護(ひご)されている。信長が上洛すると、それまで中央を押さえていた三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、他の三好三人衆に属した勢力の多くは阿波へ逃亡する。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。こうして、三好長慶以来中央政治を牛耳っていた三好・松永政権は、信長の電撃的な上洛によってわずか半月で崩壊し、代わって足利義昭を第15代将軍として擁立した信長による織田政権が誕生した。このとき、信長は義昭から副将軍の地位を勧められたが、既に将軍家を見限っていたため謝絶したとされる。
永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら美濃浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本国寺を攻撃した(六条合戦)。しかし、信長は豪雪が降る中をわずか2日で援軍に駆けつけるという神速の速さを見せたといわれている[6]。もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。
1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず、処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を摂津守護の池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長は堺に2万貫の矢銭と、織田家への服属を要求する。これに対して堺会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三好三人衆が織田軍に敗退すると臣従を余儀無くされた。
伊勢への侵攻も大詰めを迎える。永禄11年(1568年)には神戸具盛を降伏させ、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。翌12年(1569年)には伊勢国司である北畠具教も降伏させ、次男・織田信雄を北畠氏の養子として送り込む。のち具盛は幽閉され、北畠一族は殺害されている。こうして信長は、畿内における勢力を拡大していったのである。
永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍権力を制限するため、「殿中御掟」9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになっていくことになる。
元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前の朝倉義景を討伐するため、浅井との盟約を反故にし、盟友の徳川家康軍とともに越前へ進軍を開始する。織田・徳川連合軍は朝倉方の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎へ進軍したところで北近江の盟友であった浅井長政に背後を突かれるかたちとなった。突然の窮地に追い込まれた信長であったが、殿(しんがり)を務めた池田勝正・明智光秀・木下(藤吉郎改め)秀吉・徳川家康らの働き(金ヶ崎の退き口)もあり、なんとか京に逃れた。信長が京に帰還したとき、従う者はわずか10名ほどであったといわれている。
これを機に、将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化した。義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺・石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成した。
対して信長は浅井長政を討つべく、元亀元年(1570年)6月、近江国姉川河原で徳川家康軍とともに浅井・朝倉連合軍と合戦する(姉川の戦い)。浅井方の先鋒・磯野員昌に15段の備えのうち13段まで破られるなど苦戦しつつも、織田・徳川方はこの一戦に勝利した。
元亀元年(1570年)8月、信長は摂津で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣する(野田城・福島城の戦い)が、石山本願寺の援軍などもあって苦戦する。しかも、信長本隊が摂津に対陣している間に軍勢を立て直した浅井長政・朝倉義景・延暦寺などの連合軍3万が近江坂本に侵攻する。織田軍は劣勢のなか持ちこたえようとするが、重臣・森可成と信長実弟の織田信治をこのとき喪った。対して信長は、9月23日未明に急ぎ本隊を率いて摂津から近江へと帰還。慌てた浅井長政・朝倉義景らは比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国志賀において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢長島一向一揆衆が叛旗を翻し、信長実弟の織田信興や重臣・坂井政尚らを戦死に追い込んだ。いよいよ進退に窮した信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、帝の命をもって浅井・朝倉軍との和睦に成功した。大久保忠教の記した『三河物語』によれば、このとき信長は義景に対して「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。
元亀2年(1571年)9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちした。これは、浅井・朝倉連合軍に協力したことに対する報復であったとされている。
元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(のちの織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。しかし戦況は信長有利に展開し、8月には朝倉軍の武将・前波吉継と富田長繁、戸田与次らが信長に降伏したという。
10月、足利義昭の出兵要請に呼応した甲斐の武田信玄は、遂に上洛の軍を起こした。武田軍の総兵力は3万。その大軍が織田領の東美濃、並びに徳川領の遠江、三河に侵攻を開始する。これに対して織田・徳川軍も抵抗した。
しかし、武田軍の武将・秋山信友に攻められた東美濃の岩村城では城主・遠山景任が病死。その景任未亡人のおつやの方(信長の叔母)は、信長の五男・坊丸(のちの織田勝長)を養子にして女城主として抵抗するが、秋山信友はこのおつやの方に対して結婚戦術を持ちかけた。おつやの方は信友と結婚することで開城・降伏し、坊丸は甲斐に人質として送られ、東美濃の大半も武田の支配下に落ちた。
また、徳川領において徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江・三河の諸城が次々と落ちていくという不利な戦況となっていた。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000の援軍を送ったが、12月の遠江三方原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。汎秀らは討死し、信長は窮地に陥った。
元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江から三河に侵攻し、2月には三河野田城を攻略する。しかも信玄の上洛に呼応するかたちで、将軍・足利義昭が三好義継・松永久秀らと協力して挙兵に及んだ。東西に敵を抱えた信長はまたも進退に窮し、4月5日、正親町天皇から勅命を出させることによって義昭と和睦した。4月12日、武田信玄が病死。これにより武田方は軍を返し、甲斐へ帰国した。
信玄の死去によって勢いを得た信長は態勢を立て直した。そうして7月、叛旗を翻して、二条城や槙島城に立て籠もっていた足利義昭を破り、京の都から追放。これをもって室町時代に終止符を打った。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた。
天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もっていた三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した信長は、同月、3万の軍勢を率いて越前に行軍。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害し、長政の母である小野殿(阿古御料人)の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した。なお、長政に嫁いでいた妹・お市の方らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。
9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島の一向一揆による抵抗も激しく、長期戦を嫌った信長は10月25日に撤退を開始する。ところが撤退途中に一揆軍による追撃が始まり、織田軍は苦戦し、林新次郎が討死した。
11月、河内の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の三家老らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、大和の松永久秀も万策尽きて、多聞山城を明け渡すことで信長に降伏した。
天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の前波吉継(桂田長俊)は一乗谷で攻め殺された。さらにそれに呼応するかたちで、甲斐の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明智城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。
7月、信長は3万の大軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めに追い込んだ。一揆軍も巧みな戦術を見せて、信長の庶兄・織田信広など多くの織田一族の将を討ち取るなどの戦果を挙げたが、8月に入ると兵糧不足に陥り、さらに織田軍の猛攻により大鳥居城が落城して一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、次第に戦況は織田軍有利に傾いてゆく。
9月29日、兵糧に欠乏した長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去することを信長に申し出て、これを信長も了承した。しかし、信興や信広という信頼する兄弟を殺された信長は、一揆衆の退去する動きが遅いこともあり、船で移動する門徒に一斉射撃を浴びせることで攻略した。しかし一揆側も激怒した一部が織田軍に襲いかかり、信長の弟・織田秀成らを討ち取った。
さらに信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒に対しては、城の周囲から包囲して討ち取った。このとき、一揆衆は2万人が織田軍によって討ち取られたといわれている。この戦によって信長は長島門徒の反乱を治めることに成功した。
天正3年(1575年)4月、武田勝頼は信玄の死後、武田家を裏切って徳川家康の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河の野田で徳川家康軍8,000と合流する。
3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽ヶ原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。この戦いで、信長は1,000丁余りの鉄砲を用いた一斉射撃(『信長公記』による)を行わせ、武田軍に圧勝する(いわゆる「三段撃ち」戦法については、実在を疑問視する学説が大勢である)。この戦いで武田の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は(信長の偏諱を賜り)信昌と改名し、家康の長女・亀姫を貰い受け正室としている。
前年に信長から越前を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前を一揆の持ちたる国とした。そして顕如の命令で守護代として下間頼照が派遣されたのであるが、この頼照が前の領主である桂田長俊以上の悪政を敷いたために、一揆の内部分裂が進んでいた。これを好機と見た信長は長篠合戦が終わった直後の8月、越前に行軍した。
これに対して一揆勢も抵抗したが、すでに内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前・加賀門徒が織田軍によって討伐されたといわれている[8][9]。
こうして越前は再び織田領となり、信長は越前8郡を柴田勝家に与えた。このとき、信長は勝家に対して北国経営の掟を与えたといわれている。
11月28日、信長は嫡男・織田信忠に 織田家の家督ならびに美濃・尾張などの領地を譲って建前上隠居した。しかし、信長は織田家の政治・軍事を執行する立場にあった。
天正4年(1576年)1月、信長は琵琶湖湖岸に安土城の築城を信長自身が指揮を執り、開始する。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天主内部は吹き抜けとなっていたといわれている。イエスズ会の宣教師は「このような豪華な城は欧州にも存在しない」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下一統(近年、俗に天下統一とも言う)に邁進することとなる。
天正4年(1576年)1月、信長に誼(よしみ)を通じていた丹波の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。これに対し信長は4月、明智光秀や荒木村重、原田直政を大将とした3万の軍勢を大坂に派遣したが、葦原の戦いで大敗を喫し、原田直政をはじめ1,000人以上が戦死してしまった。
大坂の織田軍は勢いづく石山勢の攻勢に窮して天王寺砦に立て籠もるが、石山勢はこれを包囲し、天王寺で織田勢は窮地に陥った。信長は5月5日に若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。しかし信長は5月7日早朝、その3,000人の軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する石山勢1万5,000人に攻め入った(天王寺砦の戦い)。信長自身も負傷する激戦となったが、信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は石山勢の撃破に成功した。
その後、織田軍は石山御坊を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ(第一次木津川口の戦い)、毛利勢により石山に兵糧弾薬が運び込まれた。
この頃、越後の戦国大名上杉謙信と信長との関係は悪化し[10]、謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦。信長との同盟を破棄し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元、石山本願寺、波多野秀治、紀州雑賀衆などが反信長に同調し、決起した。
これに対し信長は、天正5年(1577年)2月、紀州雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣するが、毛利水軍による背後援助や謙信の能登侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・雑賀孫一を降伏させたという(人質の提供も無い、形だけのものといわれている)。こうして形式的な和睦を行ない、紀伊から撤兵した。
一方、謙信の攻勢を耐えていた能登七尾城の長続連は信長に援軍を要請する。信長はこれに対し、柴田勝家を総大将とした3万を前軍、自らが率いる本隊1万8,000人を後軍として出陣する。しかし、9月15日に七尾城は落城し、9月23日に前軍は謙信率いる上杉軍の前に敗れた(手取川の戦い)。信長はこれを知り、謙信との衝突を避けて安土に帰還した。
信長の窮地を見た大和の松永久秀は謙信と呼応して信長を裏切り、挙兵する。久秀の謀反を知って信長は加賀から撤兵し、織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、10月に久秀を討ち取った(信貴山城の戦い)。しかし、謙信との戦いで不利な立場に立たされた信長は、毛利氏、石山本願寺の攻勢もあって再び苦境に陥った。
ところが、久秀を討った10月、信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政が病死する。織田軍はこの機を逃さず、亀山城、籾井城、笹山城などの丹波の諸城を攻略した。天正6年(1578年)3月13日には上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めることなく急死したので、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた。この間、織田軍は上杉領の能登、加賀を攻略する。そして、謙信の死によってまたも信長包囲網は崩壊した。
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田家に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。これら信長配下の新設大名を「軍団」とか「方面軍」などと呼称する研究者もおり、今日では一般書でもかなり見かける記述となっている。もちろん当時はそのような名称は無かった。
謙信の死後、御家騒動を経て後を継いだ上杉景勝に対しては柴田勝家、前田利家、佐々成政らを、武田勝頼に対しては嫡男・織田信忠、滝川一益、森長可らを、波多野秀治に対しては明智光秀、細川藤孝らを(黒井城の戦い)、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。
天正6年(1578年)3月播磨の別所長治の謀反(三木合戦)が起こり、また、毛利は激しい抵抗を行い、同年7月、上月城は毛利の手に落ちて山中鹿之介ら尼子再興軍という味方を失う(上月城の戦い)。10月には摂津の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し、本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の与力であり東摂津を領する中川清秀、高山重友は信長に降伏した。
同年11月6日、第二次木津川口の戦いで毛利水軍が信長考案の鉄甲船6隻に大敗を喫し、孤立した石山本願寺と荒木村重は毛利の援助を受けることができなくなった。このころから信長方は優位に立つ。天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、村重が妻子を置き去りにして有岡城から逃亡すると城は落城し、荒木一族の大半が処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった備前の宇喜多直家が信長に服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。翌・天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。同年4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺も織田有利の条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨、但馬、天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めに追い込み因幡、さらには岩屋城を落として淡路を攻略した。
天正7年(1579年)、伊勢の出城構築を伊賀の国人に妨害されて立腹した織田信雄は独断で伊賀国に侵攻し、大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責するとともに、伊賀国人への敵意をも募らせた(第一次天正伊賀の乱)。そして天正9年(1581年)、信雄を再び総大将とし、6万の軍勢で伊賀を攻略。伊賀は織田家の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。
天正7年(1579年)、信長は徳川家康の嫡男・松平信康と、信康の生母の築山殿に対し切腹を命じた。理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田勝頼への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は2人を自害させた(これに関しては異説もある)。
天正8年(1580年)8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間正勝に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦さに係る不手際を理由に追放処分とした。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。
天正9年(1581年)、信長は絶頂期にあった。2月28日には京の都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる京都御馬揃えであるが、これには信長はじめ織田家一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった[11]。このときの御馬揃えには正親町天皇を招待している。
同年5月に越中を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に行軍し、同地の大部分を支配下に置いた。3月23日には高天神城を奪回し、武田氏を追いつめた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。
同年に荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、高野山が信長と敵対する動きを見せた。対して使者10数人を差し向け、穏便に事を収めようとする信長であったが、高野山側は使者を全て殺害。これに激怒した信長は、織田領における高野聖数百人を捕らえるとともに、河内や大和の諸大名に命じて高野山を包囲させた。
翌・天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曽義昌が、信長に寝返りを申し出た。これを信長は了承し、2月3日に武田に対しての大動員令を信忠に発令した。そして、徳川家康は駿河から、北条氏直が関東から、金森長近が飛騨から、信忠は木曽から、それぞれ武田領への攻略を開始した。兵の数は10万余に上ったといわれている。これに対して武田軍は、伊那城の城兵が城将・下条伊豆守を追い出して織田軍に降伏。さらに信濃松尾城主・小笠原信嶺、駿河田中城主・依田信蕃、駿河江尻城主・穴山信君らも先を争うように織田軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗もできずに敗北する。
信長が武田征伐に出陣したのは3月8日であるが、その日に信忠は甲府を占領し、3月11日には甲斐東部の田野において武田勝頼・信勝親子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した。甲斐武田氏滅亡後に信長は、「武田に属していた者はたとえ恭順の意思を示そうとも容赦無く一族まとめて根絶やしにせよ」とする、いわゆる「武田狩り」を命じたといわれる[12][13][14]。
武田氏滅亡後、信長は駿河を徳川家康に、上野を滝川一益に、甲斐を河尻秀隆に、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与えて北条氏直への抑えとしつつも、かつての信玄や謙信に対したのと同じ平和外交に徹し、同盟関係を保った。
天正10年(1582年)夏、信長は四国の長宗我部元親攻略に、三男・神戸信孝、重臣の丹羽長秀の軍団を派遣する準備を進めていた。
同年5月15日、駿河国加増の礼のため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。
家康接待が続くなか信長は、備中高松城攻めを行なっている最中の羽柴秀吉の使者より、援軍の依頼を受けた。「毛利方が大軍を率い、高松城への救援に向かう動きがある」とのことであった。
信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。のち『明智軍記』などによって江戸時代以降流布される俗説では、このとき、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓の森蘭丸に命じて光秀の頭をはたかせた、としている。
信長は5月29日、毛利遠征の出兵準備のために上洛し、その後は本能寺(在京)に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智光秀軍が突然京に現れ、6月2日に本能寺を急襲する。この際に光秀は、部下の信長に寄せる信頼の篤きを慮り、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたといわれる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘したとされている。しかし圧倒的多数の光秀軍を前に最期を悟り、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したと伝えられる(本能寺の変)。享年49(満48歳没)であった。
明智光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかったといわれているが、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。彼は本能寺の変で戦うも光秀に捕らえられ、しかし放免となっている。その後の消息は不明である。
2007年に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。本能寺については、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されている。
「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(時鳥はホトトギス)という歌がその性格を表していると言われているが、これは本人が作ったものではなく平戸藩主・松浦清(松浦静山)の随筆『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である(q:時鳥#川柳)。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ...」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍はあまりに気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。
『信長公記』によれば、浅井父子と朝倉義景の三人の頭蓋骨に金箔を塗り、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の際に披露した。これは後世、杯代わりにして家臣に飲ませたという話になっているが、小説家の潤色であり、実際には使用していない。髑髏を薄濃(はくだみ)にするというのは、死者への敬意を表すものである。
ルイス・フロイスは信長の人物像を「長身、痩躯で髭は少ない。声はかん高く、常に武技を好み、粗野である。正義や慈悲の行いを好み、傲慢で名誉を尊ぶ。決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、部下の進言に従うことはほとんど無い。人々からは異常なほどの畏敬を受けている。酒は飲まない。自分をへりくだることはほとんど無く、自分以外の大名のほとんどを軽蔑しており、まるで自分の部下のごとく語る。よき理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは一切信じない。名義上法華宗ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。その事業は完全かつ功名を極めている。人と語るときには遠回しな言い方を嫌う」と記した。
世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたことが、京の公家などが記した日記などから窺い知ることができる。
信長の事績の内容に対する評価は、時代や解釈する者によって大きな差がある。古い権威を否定するための断行的政策については当時から現代に至るまで非難が多い。そのため、狂気の革命家と評する者もいる。ただし、こうした非難については、信長の死後に織田家を乗っ取った秀吉・家康の情報操作の可能性を考慮する必要がある。実際この二人は織田家を警戒していたのか、冷遇しつつも後継者にはそれぞれ織田家の血をひく者を当てており、死後もその影響力は大きかったようである。
当時の宗教勢力が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを鑑みてか、新井白石は、「そのことは残忍なりといえども 長く僧侶の凶悪を除けり これもまた 天下の功有事の一つと成すべし」と評した。
茶坊主に何らかの不手際があり、信長が激怒したことがあった。茶坊主は怒りを怖れて棚に隠れたが、信長は棚ごと茶坊主を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから「圧し切り長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられたという。
天正元年(1573年)11月、足利義昭の帰洛の交渉のため、毛利輝元から信長の元に派遣された毛利家の安国寺恵瓊は、「信長の代 五年 三年は持たるべく候 来年あたりは 公家などに成らる可しと見及び候 左候て後 高転びに転ばれ候ずると見申し候 秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送った(ただし、この発言は信長の死後に流布したものであり、喧伝の可能性もある)。
天正6年(1578年)、畿内の高野聖1,383人を捕え、殺害した。高野聖に成りすまし密偵活動を行うものがおり、これに手を焼いた末の行動であるといわれている。
天正10年(1582年)4月10日、信長が琵琶湖の竹生島参詣のために安土城を発った。安土城と竹生島は距離があるため、信長は今日は帰ってこないと思った侍女たちは桑実寺に参詣に行ったり、城下町で買い物をしたりと、安土城を空けていた。しかし、一泊すると思われていた信長は日帰りで帰還。侍女たちの外出を知った信長は激怒し、侍女を数珠つなぎにした上で、老若問わずすべて惨殺した。 侍女の助命嘆願を行った桑実寺の長老も、同じ方法で信長に殺されている。ただし、桑実寺では、このとき殺害されたはずの長老の記録が本能寺の変以降も残っているため、実際には殺されていないとしている。また、文献に「成敗された」とはあるが、侍女たちも殺害されたとは記録に無い。当時、縄目を受けるという成敗(処罰)の方法もあったことから、殺害にまでは至らなかったとの説もある。
元亀元年(1570年)5月6日、杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが、未遂に終わっている。天正元年(1573年)に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の極度に悪い竹製の鋸(のこぎり)で首をひかせ、長期間激痛を与え続ける拷問を科し、なぶり殺しにした。ちなみに、これは大賀弥四郎という家臣に対して家康も行っており、江戸時代では公事方御定書に極刑の一つとして紹介されている。
天正6年(1578年)12月13日、尼ヶ崎近くの七松で荒木村重の一族郎党の婦女子122人を磔にし、鉄砲で次々と撃ち、槍・長刀で刺し殺した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」[15]
信長の敵勢力に対する行為の大半は、当時の常識で言うと残虐というよりもむしろ普通といえる事件もあり、戦国時代を早く終わらせるためにはやむを得ない行為という意見[要出典]もある。実際これ等の所業・処刑方法には、徳川家康等の大名もやったものがあり、秀吉の天正5年に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめに、女・子供200人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑した行為(同年12月5日の羽柴秀吉書状)、武田信玄・上杉謙信等の敵を奴隷として売却すること(ルイ・ソテロ等、当時の伝道師の日記)や敵方の女性を競売にかけたり(小田井原の戦い)といった行為等もことさら珍しいことではなかった。このように当時の状況や道徳の違いを考慮してその行動を評価する必要がある。
信長の肖像画としては、愛知県豊田市の長興寺所蔵のもの、および、兵庫県氷上町が所蔵する坐像(「#第一次信長包囲網」参照)が、そのように伝えられている。
このほか、ヨーロッパから来た画家によって写実的な肖像画[16]が描かれていたとも言われるが、太平洋戦争時の空襲により焼失している。現存する写真によれば、太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、男らしくたくわえられた髭(ひげ)などが特徴である。ただし、この肖像画に関しては史料的裏付けが無く、明治時代に行われた「忠臣」の顕彰事業時に作成されたとも言われている。青年のころは、女子と見まがう美男子であったとする記録もある。身長は約170cm程度で(比較資料:1 E0 m#脚注・出典)、500m向こうから声が聞こえたという逸話があるほど、かなり甲高い声であったという。
身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際等にはその姿を庶民の前に晒している。お盆では安土城の至る所に明かりをつけ城下町の住人の目を楽しませるといった行動から祭り好きでもあったようである。
上京以来朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから公家とも親交が深かった。特に近衛前久とは最初は敵対していたにも拘らず、趣味の一致などと相まって特に仲がよかったようである。
当時の他の戦国武将同様、男色も嗜み、小姓の前田利家、堀秀政、後には森蘭丸(異説あり)ら多くの稚児と関係を持ったと伝わる。また、側室は権力の強大さに比べ少ないが数多くの子をなしている。
南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した『馬揃え』にビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年は戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けていたといわれている。アレッサンドロ・ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、彌介(やすけ)と名付け側近にした。
イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などをよく理解したといわれる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。好奇心が強く、鉄砲が一般的でないころから火縄銃を用いていた。奇抜な性格で知られるが、ルイス・フロイスには日常生活は普通に見えたようである。ローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。
囲碁・幸若舞を好み、猿楽(能)を嫌った。幸若舞『敦盛』の一節「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか」 という部分は、信長の人生観と合致していたのか、特にお気に入りで、よく舞ったといわれている。
大の相撲好きで、安土城などで大規模な上覧相撲をたびたび開催した。また、相撲大会は身分問わず、信長の側近と庶民が入り混じって相撲をとっていたといわれる。そのほか水術、鷹狩、馬術、弓術などの身体鍛錬、武術鍛錬に繋がるものを趣味としていた。囲碁も趣味としており、名人という言葉は信長発祥といわれている。
三好義継が敗死したとき、坪内という名のある三好家の料理人が織田家の捕虜となった。このとき、信長は坪内に対して「料理がうまければ罪を許して料理人として雇う」と約束した。そして坪内が作った料理を信長は食したが、このとき「料理が水っぽい」として坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう1度だけ機会が欲しいと頼んだ。そして2度目に出された料理に対して、信長は「大変うまい」と認め、料理人として取り立てたという。後で坪内は、「最初から2度目の料理を出していたら良かったのではないか」と訊ねられると、「最初は京風の上品な料理、次は味の濃い田舎料理を作っただけです。しょせん信長公も田舎者ということですよ」と語った。後日、その話を耳にした信長は、「自分の料理人として仕える以上、自分の好みにあった料理を作るようにまず努めるのが家来としての本分である。それを怠ったのは単に無能だったからだ」と答えたという。
訓読すれば「天(あめ)の下、武を布(し)く」となる。「武力を持って天下を取る」という風に解釈されることが多いが、近年の研究では「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に取ることが多い。上述のように信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃からこの印を用いている。
宗門は法華宗を公称していたが、一向一揆や延暦寺に対する政策や、安土城の石垣に地蔵仏や墓石を用いたこと、ルイス・フロイスの記載などから唯物論的思考法を身に付け、当時の僧侶についてはその横暴を非難し、キリスト教の宣教師を誉め、神仏の存在や霊魂の不滅を信じることはなかったとも言われている。ただし、織田信長が仏教勢力に対して厳しい姿勢で臨んだとする史料のほとんどは、仏教勢力と対立関係にあったイエズス会のものであることに注意する必要がある。さらに、信長が一向一揆を滅ぼそうとしたとする史観は、江戸時代に本願寺教団によって流布されたものであるとの研究もある。
また一方では安土城天主内の天井、壁画に仏教、道教、儒教を題材とした絵画を使用したり、浄土真宗や延暦寺の宗教活動自体は禁止しなかった。
安土城内に信長に代わる『梵山』と称する大石を安置して御神体とし、家臣や領民に礼拝を強要したと伝えられる(ルイス・フロイス『日本史』)。この自己神格化については、朝廷との関係や大陸出兵構想などの視点から肯定的な学説が数ある一方、否定的な学説も多い。また、フロイスがこのことを記述したのは信長の死後で、フロイスの記述以外の一級史料に見ることができないため、フロイスの記述そのものの信憑性について疑問視する研究もある。
信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)で学界は二分されている。朝廷の代表者である正親町天皇と信長の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた。1990年代以降は、今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇』を上梓し、桐野作人・立花京子らが実証研究に基づく本能寺の変「朝廷黒幕説」を提示するなど、本能寺の変の真相研究などと絡んで論争が活発になっている[17]。
天正元年(1573年)12月に信長より譲位の申し入れがあり、天皇もこれを喜んで受諾した。しかし、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった。
誠仁親王への譲位と足利義尋(足利義昭の子)への将軍宣下を同時に行うことで、信長が両者を包摂した権力者になることを天皇が拒絶した…朝尾
これまで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった[20]。天皇の譲位は、信長の経済的バックアップによりはじめて可能となるのである。すなわち、天皇側が譲位を希望しても、信長が同意しない限り譲位は不可能であった。天正9年(1581年)の京都御馬揃え直後、正親町天皇から退位の希望が信長に伝えられ、朝廷の内部資料である『お湯殿の上の日記』には同年3月24日に譲位が一旦決定して「めでたいめでたい」とまで記載されたにも関わらず、『兼見卿記』4月1日には一転中止になったと記されている。
正親町天皇は馬揃えにおける信長側の好待遇に喜んで信長に手紙を送って御服を下賜し、信忠にも褒賞を与えている。また、馬揃えには前関白近衛前久ら公家も参加していた。そのため、朝廷を威圧する目的はなく、京都の平和回復を宣伝するとともに天皇を厚遇して朝廷尊重の姿勢を見せる政治的な目的があった。
誠仁親王の生母である万里小路房子の死去に伴う沈滞した朝廷の雰囲気を払拭するために、朝廷から依頼され、信長が安土城で行わせた大規模な左義長を再現した…堀
信長は天正6年(1578年)4月、右大臣兼右近衛大将を辞した後、官職に就こうとはしなかった。この後2度にわたって信長の任官が問題となり、二度目となる天正10年5月の三職推任問題では、征夷大将軍・太政大臣・関白のいずれかを与えるという条件にも関わらず、信長は朝廷から官位を受けなかった。
三職推任問題については、双方の説も朝廷主導と見るのが有力であったが、立花京子が信長の意思であるとの新説を提唱し、論争となった。なお、三職推任問題については、条件提示が本能寺の変直前であったために時間がなくて返答できなかったとも考えられている。
商工業者に楽市・楽座の朱印状を与え、不必要な関所を撤廃して経済と流通を活性化させるとともに、検地を徹底して領国支配を確立し、家臣を城下に居住させて常備軍を編成した。ただ、全ての座を無くさせたわけではない(そんな事をすれば当時の流通は麻痺してしまう)。したがって楽座にできるところは楽座に、京都のように座が力を持っている都市では座を利用した。
この節には『独自研究』に基づいた記述が含まれているおそれがあります。解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。
能力主義を重視して、足軽出身の木下藤吉郎(羽柴秀吉)、浪人になっていた明智光秀、忍者出身とされている滝川一益などを登用する一方で、譜代の重臣である佐久間信盛や林秀貞らを追放した。佐久間や林にはそれなりの実績があったが、同様の譜代家臣ながら北陸方面軍の指揮官として活躍する柴田勝家などと比すと物足りないものがあった。重臣として織田家に居座りつつ、活躍以上の利権を自己主張する佐久間や林に対し、懲罰的粛清を断行したと見る向きもある。しかし、佐久間信盛には19ヶ条の折檻状をだし、それを要約するとただ有無を言わさず追放したのでは無く、隠棲するか命を懸けて手柄を立てるかを選ばせている。この折檻状や前田利家の復帰から、失敗を上回る功績を立てれば許すという方針を持っていたと言える。
佐久間信盛や林秀貞ら譜代家臣および安藤守就の粛正については、家臣の所領を整理し織田家直轄領を増やす目的もあったと見る事もできる。
当時流行した茶の湯を家臣団掌握の手段など、政治的に活用し、一国に値する程の価値があった『名器と称される茶道具』を領地、金銭に代わる恩賞として与えたりもした。恩賞と領地加増の関係については、どの大名にとっても多かれ少なかれ頭の痛い問題であったのだが、信長はそれをうまく改善してのけたと言える。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号と上野一国の加増でがっかりしたという逸話がある。
人事においては厳しい一面があったように言われているが、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、秀吉を呼び出して厳しく叱責し、ねねに対しては励ましの手紙を送るなど、人間味を見せているところがある。また、彼が追放した佐久間信盛・信栄に関しては信盛が亡くなると、信栄の帰参を許したことからも反省したと判断したのかは不明だがその動向を気にしてはいたようである。
信長の側近の中に軍師・参謀的な人物は全く見受けられず、堀秀政、森蘭丸といった、命令を遂行するために必要な秘書官だけが登用されていた(竹中半兵衛や黒田如水は、名目上は信長の家臣だったが、実際には秀吉の軍師として仕えていた。如水は信長の実力を認めながらも、信長に仕えても軍師として活躍の場が与えられないと考え、あえて秀吉を選んだという説が有力である)。ここまで成功した人物にそういったものがいないケースはそう多くない。信長自身が他人の意見に従う事を好まず、このことが、周囲の人物が信長の意図を理解できずについていけなくなっていった要因のひとつともいわれている。ただ、乱世の時代に急速な改革を遂行するためには止むを得なかったという見方もある。ちなみに、戦国時代に今でいう軍師自体存在していないので、竹中重治が軍師であったいうのは後世の創作である。
戦国時代に寝返りや裏切りは日常茶飯事であったにも関わらず、信長を裏切った者の大半は信長が上洛してからの家臣であり、尾張・美濃時代からの家臣の中で、信長に背く者はほとんど見受けられない。
天正8年(1580年)、信長は林秀貞を昔の謀反の罪で追放したが、同じ罪にあった柴田勝家には罪を問わなかった。そのうえ、信長は存命中、勝家に対し越前8郡75万石という織田家臣団随一の領国と、織田家筆頭家老の地位を与えていた。また、松永久秀に対してもその実力を評価し、二度も降伏を許している。このように、有能であれば、その罪を許し重用もしていた。
戦略としては、入念な準備を行い相手の力をそぎ、その上で相手よりも多くの兵によって戦うといったどちらかと言うと慎重な手段を用いることが多く、桶狭間の戦いに代表されるような敵の意表をつき寡兵で大軍を破ろうとする策はあまり取らなかった。特に信長がその存在を警戒した武田信玄・上杉謙信の両名には自分から積極的には兵を出さず慎重に対応した。信玄・謙信も信長へは単独では挑まず、周囲と協力して当たった。しかし、後述のように時には寡兵による戦闘を行っており、時機を考慮し遅れた援軍を待たずに交戦するなど臨機応変に対応している。
よく根切り(皆殺し)を命じたように思われているが、実際に相手の降伏も許さず殲滅したのは寺社勢力との戦ぐらいで武田征伐・第二次天正伊賀の乱等の戦いでも一部の相手の降伏を受け入れている。寺社勢力との戦いでも、先に武力を行使したことは無く和睦を申し出たり仏法に則っての中立を促すなどをしていたが、相手がそれを一蹴したり破るなどをしていた。長島・越前の戦い等では相手を殲滅したが、その大元である顕如率いる本願寺との和睦も何度か受け入れている。また、高天神城の戦いでの家康方への手紙を見ると相手への威圧や敵の調略を容易にする行為として駆使していたことが窺える。
個人的な武勇にも優れていたといわれる。桶狭間の戦いをはじめ、一乗谷城の戦い、石山本願寺との天王寺砦の戦いでは大将でありながら自らが先頭に立って、奮戦しているほどである。大名自身が最前線に立って戦うことは異例であった。
機動力に優れており、例えば六条合戦では、本来なら3日はかかると言われた距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し、摂津に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。
敵大名や一揆衆や自らの配下には苛烈であった信長だが、地味な内政や民心掌握に敏腕を発揮しており、信長が支配下に置いた尾張・美濃などの多くは信長によって終生、善政が敷かれていた。桶狭間の戦いにおいても信長が勝利することができたのは、領民の支持があったからだとも言われている。相次ぐ戦乱で荒廃した京都の町人たちも、厳正な信長の統治に対しては歓迎したという。織田軍の足軽が道を行き交う女性に絡んでいるのを見かけた信長が、京都の治安を乱す行為をしたとして自身で手討ちにしたという挿話もある。また、本能寺の変の後に、明智光秀についた国人層が少なかったことも、これを裏付けている。
楽市楽座は信長が最初に行なった施策と言われることが多いが、実際には近江南部の戦国大名であった六角定頼(信長に滅ぼされた六角義賢の父)が最初に行なった施策である。しかし信長も、楽市楽座を大規模な施策とし、さらに琵琶湖などを中心とした流通による商業発展を目指すなど、やはり先見性のある内政を行なっていたといえる(流通による商業政策が重視されはじめたのは江戸時代後期であり、それまでは年貢が重視されていた)。
公共事業にも手を伸ばしており、道を整備し道標代わりに一里毎に木を植える(一里塚)などといった街道整備を手がけている。これにより、自軍の行軍速度が速くなり、関所の撤廃と合わさって様々な地から人の往来がしやすくなることで商業が活性化するといった効果をあげた(他国では、敵の行軍速度も速くなるという短所もあったのでなされなかった)。
信長が公認した枡のそれぞれに焼印や花押を押すことによる単位の統合、質の悪い貨幣ではなく良い貨幣を使うよう呼びかける選銭令を発令したりと、社会・経済の基盤を安定させる政策を行った。
織田氏は平氏や藤原氏とも自称するが、福井県丹生郡越前町織田にある劔神社の関係から古代豪族の忌部氏と考えられる。越前に地盤を築き、尾張に派生した。朝倉氏とは当初からのライバル関係。織田信定から古渡城主で父の信秀の代で守護代を務める本家と同等に渡り合える力を持った。
女婿 :蒲生氏郷、筒井定次、丹羽長重、前田利長、松平信康、水野忠胤、佐治一成、二条昭実、万里小路充房、徳大寺実久
黒母衣衆 :佐々成政、毛利新助、河尻秀隆、生駒勝助、水野帯刀左衛門尉、津田盛月、蜂屋頼隆、中川重政、松岡九郎二郎、平井久右衛門、伊藤武兵衛
赤母衣衆 :前田利家、飯尾尚清、福富秀勝、塙直政、黒田次右衛門尉、毛利秀頼、野々村正成、猪子一時、浅井新八郎、木下雅楽助、伊東長久、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇良之、長谷川橋助、金森長近、加藤弥三郎
他に有力重臣として九鬼嘉隆、細川藤孝、荒木村重、池田勝正、松永久秀、筒井順慶、武井夕庵、森長可、美濃三人衆などもいる。
石碑。当時の住職清玉が本能寺の変の直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇しその遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝える。秀吉に遺骨の差し出しを求められており、信憑性が高い。
五輪塔。一周忌に秀吉が建立した寺院といい、遺骸が見つからなかったため、木像を2体造り、1体を火葬して1体を総見院に安置したという。名称は信長の戒名「総見院殿贈大相国一品泰巌居士」による。
別格官幣社。秀吉は弔うために船岡山に寺を建てようとして天正寺という寺号を朝廷から賜るが、建立途中で終わる。1869年(明治2年)に明治政府は織田信長を祀る神社の建立を指示。1870年(明治3年)、天童藩知事の織田信敏が江戸邸宅内に織田信長を祀られ、その後1875年(明治8年)に船岡山の山腹に新たに創建。1910年(明治43年)に現在地の山頂に遷座。
県社。政府は1869年(明治2)に、織田信長を祀る神社の建立を指示。1870年(明治3)、天童藩の知事、織田信敏が現在の舞鶴山に織田信長を祀る。1884年現在地に遷座。
織田信長が美園で開いた楽市楽座の市神が橿森神社の御神木に祀られた。明治になって境内に建勲神社を勧請した。
「南蛮寺の鐘」:京都市右京区の臨済宗大本山妙心寺の塔頭寺院、春光院が所蔵。南蛮寺は信長が京都に建てたキリスト教会堂。
第18世住職、日順上人の父、原宗安(原志摩守)が本能寺の変の際、戦死した自分の父原胤重と兄原清安(原孫八郎)の首と本因坊算砂の指示で信長の首を本門寺まで持ち帰り柊を植え首塚に葬ったという。
織田信長サミット(織田信長との関係が深い日本の市町および関係を大切にしている市町の集まりによって開催される会議)
風雲児信長(1940年 日活 監督:マキノ正博 信長:片岡千恵蔵) :信長の勤皇精神を強調した作品。
仮面の忍者 赤影(1967-1968年 関西テレビ特撮ドラマ) - 倉岡伸太郎=第2部、嶋田景一郎=第3部)
『無双OROCHI』シリーズ(コーエー)上記『戦国無双』シリーズと『真・三國無双』シリーズのクロスオーバー作品
^ 異母兄が2人いるとする説は小和田氏によるもので、武功夜話などに基づくことから信憑性が薄い。この異母兄とされるのが庶兄・信広と異母弟・信時(秀俊)であるが、信時は他史料や系譜では五男または六男とされているため、織田氏研究者の間で議論になっている。
^ 近年、小和田氏などによって武功夜話などの資料から三男といわれることが多い。しかし、武功夜話そのものの信憑性が低く、一級史料と言えないことから、従来どおり次男とするのが正しいとされている。
^ このとき、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請する。これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているが、天皇はこれを勅命をもって了承したという。これを契機に、信長の実力が朝廷からも認められていることを知った諸大名、特に奥州からは信長に対して誼(よしみ)を通じる使者が増えたといわれている。
^ このとき、信長は村井貞勝に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。
^ このとき従軍した前田利家の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。
^ 信長と謙信は武田信玄という共通の敵と対抗するため元亀3年(1572年)に同盟を結んだが、信玄が病死し、さらに信長の度重なる宗教勢力との抗争に激怒した。
^ 「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …(中略)… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」(信長公記)
^ 信長の命令に承服しがたいものがあった徳川家康や一部の織田重臣は、命がけで武田遺臣を匿った。江戸時代以後も存族した武田ゆかりの者のほとんどは、このときの「武田狩り」から匿われた遺臣の末裔である。
^ 俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。
^ また、織田軍が武田遺臣を匿った塩山恵林寺を攻略した際、恵林寺の住職・快川紹喜が放った「心頭滅却すれば火も自ら涼し」という言葉は現在にまで残っている。
^ ただし、今谷は「朝廷黒幕説」については全面的に否定しており、桐野も「朝廷黒幕説」をのちに撤回している。
^ 天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転(仙洞御所は通常は洛中に広範な敷地を要するために、周辺の公家の屋敷や寺院の移転を伴う)費用など莫大な経費を必要としていた。つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった。羽柴(豊臣)秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として関白に昇っている。
^ 本能寺の変直後の7月17日に出された羽柴秀吉から毛利輝元に宛てられた手紙には信長を「大相国」と呼んでいるが、太政大臣贈官が宮中で論じられたのは3ヵ月後の事であり、さらにその贈官の宣命には「重而太政大臣」の一文があり2度太政大臣の辞令が出されたと解される事、変の直前の近衛前久の太政大臣辞任が急に決まった事を根拠としている。
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