ジャパネットたかたcm ソング

ジャパネットたかたcm ソング 龍一

ジャパネットたかた 龍一とは?

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ジャパネットたかた cm ソング 坂本龍一 - Wikipediaとは?

この項目では音楽家の坂本龍一について記述しています。プロ野球選手の坂本竜一については坂本竜一をご覧ください。
坂本 龍一(さかもと りゅういち Sakamoto Ry?ichi、1952年1月17日(56歳))は日本の音楽家。作曲、編曲、音楽プロデューサー、キーボーディスト。
世界的に活動している日本人ミュージシャンである。その音楽性は幅広く、クラシック音楽が根幹にはあるものの、民俗音楽、現代音楽にも造詣が深く、ヘビーメタルとカントリー音楽以外はすべて演奏分野の範疇にある。
幼いころから作曲を学び、東京藝術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動を開始。1970年代後半よりソロとして活動する一方、メンバーとして参加した音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」が国内外で商業的成功を収め、人気ミュージシャンとなる。YMO時代にテクノポップやニュー・ウェイヴの分野で活動したことは広く知られているが、その後は一つのところに留まらず、現代音楽の手法を使った作品の発表、ロックとテクノの融合、ワールドミュージック、ヒップホップやR&Bなどのブラックミュージックを織り交ぜたポップス、オペラの作曲およびプロデュース、クラシックやボサノヴァのユニットを結成してのワールドツアー、近年はアンビエントやエレクトロニカの作品を発表するなど、ジャンルを超越して多彩な作品を発表している。
自身の音楽活動のほか、プロデューサーやアレンジャーとしても活動し、他のアーティストへの楽曲提供も数多く行っている。また、映画『戦場のメリークリスマス』の音楽を担当したことをきっかけに映画音楽の作曲も手掛けるようになり、1987年公開の『ラストエンペラー』(坂本が書いたピアノスケッチ譜に基づいて、実際のオーケストレーションは、本人を含む、東京藝術大学作曲科後輩のアレンジャー川崎絵都夫、上野耕路、野見祐二、渡辺蕗子等が分担した)では日本人初のアカデミー賞オリジナル作曲賞を受賞し、以降、国内外の映画音楽を手掛け、映画音楽家としての地位を築いた。
代表曲は、『戦場のメリークリスマス』のテーマ曲「メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス」、覆面ボーカリスト「Sister M」を起用して話題となった「ジ・アザー・サイド・オブ・ラブ」、そしてテレビCMに起用されたピアノソロ曲「エナジー・フロー」などがある。
音楽家としての活動のほかに、いくつかの映画や映像作品には俳優としての出演歴がある。テレビCMにも多く出演しており、ときには、ダウンタウンなどのお笑い番組やバラエティ番組に出演する。
近年は各メディアで環境問題や平和問題をはじめとした諸問題について発言する機会も多く、最近はPSE問題において、坂本も中心人物として参加した反対運動が実を結んだ。近年は「エコ」や「ロハス」といったキーワードを口にすることが多く、マクロビオティックの実践者でもある。一時期はベジタリアンでもあったが、これは「人としての闘争本能がなくなりそうだから」という理由で後に挫折している。
「教授」「世界のサカモト」とあだ名される。左利き。血液型はB型。現在はアメリカ合衆国ニューヨーク州在住。歌手の坂本美雨はシンガーソングライターの矢野顕子との間に生まれた、坂本にとっては次女。 身長171cm。
1952年東京都中野区に生まれる。父は河出書房の編集者で、三島由紀夫や野間宏、中上健次などを担当した坂本一亀。母は帽子デザイナー。通っていた幼稚園が「全員ピアノを習う」所だったため、3歳からピアノを習いはじめる。自由学園幼児生活団に準じた世田谷幼児生活団において作った「うさぎのうた」が最初の作曲。10歳で東京藝術大学教授の松本民之助に師事し作曲を学び始める。なお、作曲を勉強し始めて最初に興味を持った作曲家は、ストラヴィンスキーであったという。この頃は特にピアノが好きではなく、むしろ苦痛だったという。
1959年から東京都世田谷区給田に育つ。世田谷区立祖師谷小学校から世田谷区立千歳中学校を経て、1970年東京都立新宿高等学校を卒業(塩崎恭久、野中直子と同期)。新宿高校時代には読書が趣味で、常に学校図書館の貸出ランキング10位以内に入っていた。また風月堂などにたむろするフーテンたちに影響を受け、ジャズを聞くようになり、自分でも演奏する。ロックも好きであったが、フォークは大嫌いであった。また学生運動にも、のめり込む。この時の闘争仲間に、後に「アクション・カメラマン」になった馬場憲治がいた。
1970年東京藝術大学入学[1]。大学在学中、民族音楽学研究の泰斗小泉文夫の講義を受け、その内容の深さに坂本はそれまで培ってきた音楽観の根底を揺さぶられるような大きな衝撃を受けたという。さまざまに変遷してきたと見られる坂本の作風であるが、そのベースには、小泉から学び得た民族音楽学の知識や思想がたしかにあるようである。ただし小泉自身は作曲をしなかったので、坂本に作曲技法上の影響を与えたというわけではなかった。また坂本は、大学在学中、一年ほど作曲家三善晃にも学んでいる。さらには、渋谷で開かれていた高橋悠治の勉強会にも高校・大学を通して顔を出していた。坂本が電子音楽に出会ったのは、そんな大学学部在学中のことである。1974年東京藝術大学の音楽学部作曲科を卒業し、同大学院音響研究科修士課程に進む。1976年修了。
1975年、大学院在学中に新宿ゴールデン街で意気投合したという友部正人の『誰もぼくの絵を描けないだろう』にピアノで参加。スタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。翌1976年、竹田賢一と「学習団」という芸術-実践の運動体を組織し、竹田のプロデュースの下、はじめてのアルバム『ディスアポイントメント-ハテルマ』(土取利行とのコラボレーション)を発表。以降、りりィのバックバンド(バイバイセッションバンド)に所属した他、初期の山下達郎の楽曲(「2000トンの雨」「パレード」など)、大瀧詠一のアルバム『Niagara Triangle vol.1』などにキーボードとして参加。また、大貫妙子のLP『サン・シャワー』『ミニヨン』『ロマンティック』等にアレンジャー、プロデューサーとして参加。この時期を、後に坂本はアルバイト時代と呼んでいる。
1978年2月、細野晴臣のアルバム『はらいそ』に参加。細野の誘いにより、高橋幸宏とともに「イエロー・マジック・オーケストラ」(以下YMOと表記)を結成、活動を開始する。10月、坂本初のソロアルバム『千のナイフ』をリリースし、ソロ・デビューも果たす。11月、YMO名義の「イエロー・マジック・オーケストラ」を発売、続く「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」で爆発的人気を博す。またこの年、風の旅団の前身となるテント劇団「曲馬館」の音楽にも参加した。翌1979年にはYMOと並行する形で渡辺香津美、矢野顕子、小原礼、村上秀一、本多俊之らとセッションユニットKYLYNや、ほぼ同じメンバーで、各パート二人ずつで演奏技術を競わせるというコンセプトのカクトウギセッションでの活動を行う。また一部の楽曲で第二ピアノを演奏した高橋悠治のLP『新ウィーン楽派ピアノ音楽集成』が発表された(後に『新ウィーン楽派ピアノ作品集』としてCD化。また参加楽曲シェーンベルク「四手のための六つの小品」は坂本のアルバム『フェイヴァリット・ヴィジョンズ』にも収録されている)。同年から1980年にかけて、YMOは2度にわたるワールドツアーを実施。
YMOとしての活動の傍ら、1981年よりNHK-FMにて「サウンドストリート」のパーソナリティを務める。担当していた火曜日ではアマチュアミュージシャンから送られるテープを番組内で放送する「デモテープ特集」が不定期に行われていた(この番組にテープを送っていたリスナーで後にメジャーデビューしたのが、ジュラン、テイ・トウワ、槇原敬之らであり、またステッピン・イントゥ・エイジアでラップを担当した浅野智子もこの特集がきっかけで、同曲のレコーディングに参加することになった。ここで流された曲の一部が後に「DEMO TAPE-1」としてCD化されている)。また、この頃、立花ハジメ、沢村満、鈴木さえ子等と「B-2UNITS」という名前のユニットを結成、ライブ活動を散発的に行っている。1982年には、RCサクセションの忌野清志郎と組んでシングル『い・け・な・いルージュマジック』をリリース。資生堂82春のキャンペーンソングとしてヒットする。TVでは、どぎつい化粧をした男同士でキスをするなど、過激なパフォーマンスを展開した。またこの年、矢野顕子と結婚。
1983年公開の映画『戦場のメリークリスマス』には、大島渚監督の依頼により、ヨノイ大尉役で出演し、デヴィッド・ボウイ、ビートたけしと競演。出演の条件として音楽を担当した。同作がカンヌ国際映画祭に出品された際に、映画監督ベルナルド・ベルトルッチと出会い、これが映画『ラストエンペラー』への布石となる。この年、デヴィッド・シルヴィアンと組んでシングル「禁じられた色彩」をリリースした。同年、YMOは「散開」(解散)する。
1984年、矢野顕子らとMIDIレコードを設立。レーベル「school」を立ち上げる。1986年には初のソロ・コンサート「メディア・バーン」を全国24カ所(28公演)で行う。翌1987年、映画『ラストエンペラー』公開。坂本は甘粕正彦満映理事長役で俳優として出演し、音楽をデイヴィッド・バーン、コン・スーとともに担当。これによりゴールデングローブ賞を日本人で初めて受賞し、アカデミー賞作曲賞も受賞する。以後、映画音楽作家としての地位を確立する。溥儀役のジョン・ローンとは、敵役同士という間柄の役作りのために、撮影中は一言も口を利かなかったという(「夜のヒットスタジオ」より)。
1989年、海外戦略のためヴァージン・レコードに移籍する(しかしセールス的な成功を収めることはなかった)。後にEMIのヴァージン・レコード買収により契約を主導したヴァージン・アメリカの社長の辞任にともなって契約を解消。1990年4月からは、音楽の拠点をニューヨークに移す。1992年にはバルセロナオリンピック開会式のマスゲームの音楽を作曲、自らも会場でオーケストラを指揮した。依頼料は1ドル。このときの楽曲は若干アレンジされ、後に「El Mar Mediterrani」として発表された。高橋幸宏によると「非常に嫌々やっていた」。1993年、YMO「再生」(再結成)。アルバム『テクノドン』を発表し、6月には東京ドームにて2日間のライブを行う。
1994年には契約地域を分割し、日本ではフォーライフ・レコードに移籍し、レーベル「gut(グート)」を設立。日本国内での活動を活発にした。日本以外の海外地域ではエレクトラと契約。1995年、ダウンタウンの変名音楽ユニット「ゲイシャガールズ(GEISHA GIRLS)」をプロデュース。以降、彼らとの親交を深め「ダウンタウンのごっつええ感じ」ではコント「アホアホマン」に出演、アホアホブラザー役でエキセントリックな一面を見せた。
1998年、エレクトラとの契約を解消し海外地域ではSONY CLASSICALと契約、日本ではワーナーミュージック・ジャパンに移籍。翌1999年、製薬会社三共のCMに用いられたピアノソロ曲「エナジー・フロー」を収録したマキシシングル「ウラBTTB」がミリオンセラーとなり、インストゥルメンタルとしては初のオリコンチャート1位を記録した。また、自身初となるオペラ『LIFE』を公演。
この頃には矢野顕子との夫婦仲は実質的に破綻していたとされ、テレビ番組「おしゃれカンケイ」において愛人とその女性との間にいる子供の存在を認め、長男と坂本美雨に「お父さんが好きな人はお母さん(矢野顕子)ではない」と告げたというエピソードも披露している。また「子供は4人」と語り、矢野顕子との結婚前に学生結婚していた女性との間にも子供がいることも明かしている(4人のうち1人は矢野顕子の連れ子で、坂本と養子縁組はしているが血縁関係はない)。
2001年、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。同番組の企画において、親交のある国内外のアーティスト達を起用し、地雷除去のためのチャリティーソング「ZERO LANDMINE」を作曲、リリースした。同年にはボサノヴァトリオ「Morelembaum2/Sakamoto」を結成し、アルバム『Casa』を発表。このトリオとしての活動、および坂本がこれまで自身の音楽にボサノヴァを取り入れてきたことなどが評価され、翌2002年、日本とブラジルの友好化に寄与したとして、ブラジル政府より国家勲章を授与される。2003年には、この年4月にオープンした六本木ヒルズのテーマソング「the land song-music for Artelligent City」を発表し、ネットで無料配信を行う。
2006年11月6日、エイベックスと新レーベル「commmons」を共同設立。この年、矢野顕子と離婚。2007年3月10日-5月28日、高谷史郎と共に、オペラ「LIFE」をベースにしたインスタレーション作品「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」を山口情報芸術センターにて展示。3月10日にはオープニング・コンサートを行った。9月15日-11月4日、東京のNTTインターコミュニケーション・センターでも展示。9月15日には、浅田彰、中沢新一を交えてのアーティスト・トークに加え、オープニング・コンサートを行った。またこの年は細野晴臣と高橋幸宏との活動が活発になる。2月にキリンラガービールのCMにYMOとして出演。同時に「RYDEEN 79/07」をリリース。5月19日には「ヒューマン・オーディオ・スポンジ」(HAS)としてチャリティーライブを行う。さらに7月7日には「ライブ・アース」にYMOとして出演。8月22日には「HASYMO(ハシモ)」名義で新曲「RESCUE」をリリース。
オリエンタリズムを感じさせる作風と初期の作品に見られた現代音楽の手法を用いた斬新さ、独特の風貌と知的な発言が固有の存在感を生み、多くのファンを獲得。これまでに映画やCMにも多数出演している。
政治思想に関する発言が多く、心情的に左派であることを公言している。新宿高校時代には学生運動に関わり、塩崎恭久と馬場憲治の3人でバリケード封鎖を決行した。大学時代には武満徹を中傷する過激なビラを配ったこともあった。これについて坂本は、武満は当時音楽界の権力の象徴だったからと、武満の没後語っている。中傷された武満は、逆に坂本に「このビラ撒いたの君?」と言い寄り興味を覚え、話をするきっかけになった。なお、坂本は武満の没後、武満が晩年完成を目指していたオペラからインスパイアされた曲「Opus」を作曲する(アルバム『BTTB』所収)。さらには自作のオペラ『LIFE』を完成させるなど、武満のことを少なからず意識していた。概して、若い頃は退廃的な考えを持っていたようだが、野口晴哉の著書『風邪の効用』やオペラ『LIFE』の製作のための取材等の影響で、健康的、生命的な考えへと変わっていった。作家や思想家など知識人との交流も深く、作品に影響が及ぶこともしばしばである(#関連項目参照)。
1997年ごろから日本における音楽著作権の取り扱いについて、JASRACが独占して管理すること、および権利の信託が包括的にしか行えないことに対してこれを改めるようJASRACおよび文化庁に対して働きかけを行った[1]。MAA(メディア・アーティスト・アソシエイション)設立。1999年制作のオペラ『LIFE』あたりから環境・平和問題に言及することも多くなり、地雷除去活動を支援するためのチャリティーソングとしてGLAY・Mr.Children・DREAMS COME TRUE・DJ KRUSHらを迎えて制作した『ZERO LANDMINE』[2]やアメリカ同時多発テロ事件をきっかけとした論考集『非戦』を発表している。
2004年には音楽評論家・高橋健太郎やピーター・バラカンらの呼びかけに応じて共同声明「私たち音楽関係者は、著作権法改定による輸入CD規制に反対します」に名を連ね、国会で審議されていた音楽レコードの還流防止措置(レコード輸入権)に反対を表明した[3]。
2006年2月には、PSE問題に絡み、松武秀樹、椎名和夫とともに2006年4月に本格的に施行される電気用品安全法(PSE法)に反対する署名を募集[4]。経済産業省がマークなしの販売を条件付きながら認めるなど、一定の成果を得た。また、同年5月にはShing02、en:Christian Fenneszらとともに青森県六ヶ所村の核再処理施設に関する危険性を訴えるプロジェクトSTOP ROKKASHOを始め、河野太郎、保坂展人などの政治家、小室哲哉などのミュージシャンからも賛同を得ている[5]。そこでは、青森県、岩手県の産品の不買運動を展開している[6]。
2007年7月16日に起きた新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原子力発電所が被害を受けたことに応じて「おやすみなさい、柏崎刈羽原発」という運動を始め、新潟県産品の不買運動などを進めている。
坂本のピアノ曲集『AvecPiano』に寄せられた解説文のなかで音楽評論家秋山邦晴は「なかなかピアノも巧い」と評している。また処女作千のナイフでは現代音楽家の高橋悠治との連弾を行っている。加藤登紀子が坂本のピアノの演奏技術に感嘆し、それを本人に伝えた際に坂本は「18歳の頃の僕はもっとすごかった」と答えたという。フランツ・リストの難曲ラ・カンパネラを藝大入学以前に、初見で弾きこなしたとも本人は発言している。その一方、「ライディーン」のPVでは合理的に使えるポジションで小指を使わず、1から4への不自然な替え指をしているのも見られる。
音楽を担当した映画「ラストエンペラー」においてアカデミー作曲賞を受賞した際には、写真週刊誌フライデーにおいて「この賞を受賞したことよりもこれから仕事を選べるという点のみで今回の受賞は悦ばしい」と発言。活動の拠点を米国に移したのも「日本という小さなマーケットでCDを100万枚売るよりも、世界の10カ国からそれぞれ10万枚ずつCDを売るほうが作品のクオリティーを落とさないで済む」と雑誌「GOETHE」で述べている。
現代音楽への進出は、原田力男の推薦にもかかわらず成功しなかった。現代音楽界を狭い世界と捉え、その中で活動することを嫌ったとの本人コメントあり。社会的成功を確実にした後、神奈川県内のクラシック音楽専用のホールで個展を行ったが、そのときの作風は20世紀前半の近代和声の段階に「意図的に」留まっている。YMO散開後の1984年、題名のない音楽会においてオーケストラを用いて行われたニューアルバム『音楽図鑑』のプロモーションで用いた技法は1960年代に一世を風靡したフランク・ステラのような単色のミニマリズムではなく、時代遅れのものとされオーケストラの濁った音で奏でられるポスト・ミニマルであった。
学生時代にヤニス・クセナキスの作曲法を取り入れようとしたが、数学ができなくて挫折した。太田出版から出された「坂本龍一・音楽史」に、その試行の膨大なメモが掲載されている。多くの著書でジェルジ・リゲティやオリヴィエ・メシアンに言及しているが、自身の音楽語法はフィリップ・グラスやトム・ジョンソンのような簡明なパターンの羅列を好んでいる。
YMOでの活動は国内外のオーバーグラウンド・ニューウェーヴに革新を起こしたが坂本はそれと平行し、国内のアンダーグラウンドシーンにも接近した。NY帰りの東京のパンクバンドフリクションのファーストアルバムをプロデュース、関西の女性パンクボーカリストPhewのソロデビューシングルでのコラポレーション、山崎春美の音楽プロジェクトTACOへの参加などが挙げられる。しかし、TACOでの過激な楽曲提供はともかく、フリクションのアルバムはメンバー・ファン共に「ライブでの緊張感・硬質感が再現されていない」と不評を買い、Phewも「(坂本は)仕事は速いがセンスは悪い」と評判は芳しくない。国外ではNO NEW YORKで一際存在感を放っていたアート・リンゼイとの親交が有名である。DNAの頃のアートと始めて出会ったときは満足に言葉も交わせず一方的に敵意をむき出されてしまっていたが、その後坂本が自身のソロアルバムへの参加をオファーしたらあっさり快諾、以後現在まで坂本の活動に欠かせない人物となった。
J-WAVEにて2004年放送の番組「ゆく都市くる都市・新春放談」では、細野晴臣、高橋幸宏との対談で、リズム隊出身の両者に対し、坂本自身はリズムトラックの構成にコンプレックスがあると告白した。対して細野は「教授の作品を聴いて特にリズムが弱いと思ったことは無かった」と語り、少々意外な発言だったようである。
コンサートではほとんど年齢制限を設けたことはなく「0歳児でも入場可」をポリシーとしている。しかし2007年5月12日「坂本龍一プロデュース公演/ロハスクラシック・コンサート2007」の会場となったbunkamuraオーチャードホールでは、子供の泣き声が数か所から上がり、第二部開演前に坂本から「0歳児でもOKというのをポリシーにしていますが、純粋に音楽を楽しみに来ている方もおられるでしょうから、常識的なところで、例えばロビーへ行ってあやすなど臨機応変に判断をしてください」と照れながらのアナウンスがあった。
1984年-1989年まで「本本堂」という個人出版社を持ち、自身の著書を中心に、独自の出版活動を行った。 また、1984年に、シリーズ<週刊本>から刊行された『本本堂未刊行図書目録』(朝日出版社)も話題となった。その本で予告されたのは、浅田彰著/井上嗣也装幀『煉獄論あるいはゴダール・スペシャル』、南方熊楠著/井上嗣也装幀『男色と免疫疾患』、赤瀬川原平装幀『糸井重里児童文学全集』、武邑光裕編/細野晴臣装幀『往復書簡 ウィリアム・バロウズ-出口王仁三郎』、中沢新一構成/坂本龍一ピアノ/日比野克彦装幀『グルジェフ体操カセットブック』などの、50冊であった。
高橋がテレビ番組で語ったところによると、坂本と高橋が初めて会った時、坂本が東京藝術大学の大学院生だと聞いた高橋が驚いて、「大学教授にでもなるの?」と尋ねたことがきっかけ。アスペクト刊「イエロー・マジック・オーケストラ」には坂本が大学院生であることを知った高橋が「じゃあ、プロフェッサーだから『教授』」と名付けたとある。
「教授」と呼ばれる前、当時の坂本の風貌が野球漫画「あぶさん」の主人公に似ていることから「あぶ」と呼ばれていた。
GEM(2002年)※非売品(2002年に発売されたベストアルバム「US」「UF」「CM/TV」の初回盤のみの特典として、応募券3枚を集め送るともらえた”坂本龍一お宝音源”を収録したCD)
ピーチ・ボーイ -桃太郎-(Peach Boy - Momotaro -, 1992年)※童話「桃太郎」の英語朗読(シガニー・ウィーバー)のバックに流れる音楽を担当
ワイルド・パームス(Wild Palms, 1992年)※アメリカのテレビドラマのサウンドトラック。
ラストエンペラー(The Last Emperor, 1988年) - 米アカデミー賞、LA映画批評家賞、ゴールデングローブ賞、グラミー賞受賞。
バンブー・ハウス/バンブー・ミュージック(Bamboo Houses/Bamboo Music, デヴィッド・シルヴィアン・アンド・リュウイチ・サカモト, 1982年)※シングル
禁じられた色彩(Forbidden Colours, リュウイチ・サカモト&デヴィッド・シルヴィアン, 1983年)※シングル
「な・い・し・ょのエンペラーマジック」(山崎春美が率いたユニット「TACO」とのコラボレーションでアルバム「TACO」に収録, 1983年)
聖剣伝説4(スクウェア・エニックス)(2006年)オープニング・エンディングテーマ「Dawn of Mana」を担当
朝日放送・オープニング(1989年 - 2000年10月) ABCラジオでは別アレンジが現在でも使用中。
コンピューターおばあちゃん(酒井司優子)注:オリジナルは中学生バンド「コズミック・インベンション」の楽曲(こちらの編曲は小田啓義)。
反復と旋(1976年) 室内オーケストラのための作品。東京藝術大学大学院の修士作品。初演は1984年、「題名のない音楽会」において行われた。
Cantus omnibus unus(2005年) 第7回世界合唱シンポジウムテーマ曲。アカペラ混声四部もしくは同声三部。
日本科学未来館・液晶パネルの張られた巨大地球儀(正式名称ジオ・コスモス)付近で流れる曲をプロデュース。
NHK「サラリーマンNEO」2007年・年の瀬スペシャル(2007年12月30日、コント「私とNEO」にて本人役で出演)
ナム・ジュン・パイク(坂本との親交あり、また坂本は「A TRIBUTE TO N.J.P.」という曲を作曲している:「音楽図鑑」参照)
映画音楽《ラストエンペラー》のオーケストレーター:川崎絵都夫先生へのインタビュー(早稲田大学第二文学部機関紙記事)
^ 坂本が東京都立新宿高等学校一年生の時、坂本の作曲の腕前に関して、高校の先輩の池辺晋一郎から「このままの実力でも(東京芸大に)十分受かる」と太鼓判を押された(当時の東京芸大作曲科の難易度は現在より遙かに高かった)。芸大受験に失敗した場合は、父の母校である日本大学芸術学部に進むことを考えていた。その理由は「当時の日大全共闘は一番ぶっちぎれていたから」。
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[ ジャパネットたかたcm ソング の 龍一参考サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E4%B8%80

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